クラーク博士と言えば、さっぽろ羊ヶ丘展望台で腕を伸ばして立っている銅像が凄く有名な人ですよね。
羊ヶ丘展望台がある場所とは何の関係も無いらしいけどね
名前はよく聞くけど、何をした人かよく知らないなあ…
ちなみに、クラーク博士のフルネームはウィリアム・スミス・クラークです。
北海道というか日本に滞在した期間は、実は1年未満。
なのにどうしてこんなに有名なの?北海道で結局何してたの?について、簡単にわかりやすくまとめていきたいと思います。
クラーク博士について
クラーク博士が札幌農学校の教頭先生として招かれた時は50歳。
アメリカのマサチューセッツ農科大学の学長をしていて、植物学者でした。
北海道に招かれた時には、大学の休暇を利用してきたのだとか。
クラーク博士って札幌農学校の教頭先生だったんだ
ちなみに校長は調所広丈って人だよ
調所校長は他の開拓使な仕事も兼任して忙しく、実質クラーク博士が校長として見られていました。
クラーク博士と札幌農学校
札幌農学校は北海道開拓や学業の発展のために作られた学校でした。
その中でクラーク博士は農業の事や・植物学・英語などを教えていました。
クラーク博士が経験なクリスチャンだった事もあり、良い人格を育てる為にもキリスト教を教えていたのだとか。
ビー・ジェントル(紳士に)を校則にして、自由と独立・人間の尊重を基盤にした校風を目指していました。
農業の先生として、敬虔なキリスト教信者として、
北海道で始まる新しい時代のシンボル的な存在だった、と考えられています。
今でも外国人の先生って学校の中で目を引く存在ですが、
明治期で色々新しい事をしようとしている北海道に外国人の先生がいる!
というのは凄く目立ったのではないでしょうか。
札幌農学校出身の有名人
直接クラーク博士から教わってはいませんが、農学校に通っていた著名な人として
内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など後の時代に名を残している人がたくさんいます。
新渡戸稲造って五千円の人だよね
昭和58年~平成15年に作られてた五千円札ね
クラーク博士が札幌農学校で遺したもの
北海道大学付属の植物園
→開拓使へクラーク博士が提案していたのを元に、1886年に作られた。
北海道大学農学部第二農場
→クラーク博士の大農経営構想から、一戸の酪農家をイメージして作られた開拓の模範農場として1876年に誕生。
1877年に建設された家畜房や穀物庫は、日本最古の洋式農業建築とされ、とても貴重なものです。
札幌時計台も札幌農学校な何かだっただよね?
それ2代目の教頭先生がらみらしいよ
2代目教頭のウィリアム・ホイラーが考えて、1878年に作られた札幌農学校の演武場。
これが今も建物が残っている札幌時計台にあたります。
ちなみに、北海道で甜菜(ビート)を作ったらいいのでは?という提案をしていたのも、クラーク博士だったそうな。
北広島市とクラーク博士
北広島市のカントリーサインはクラーク博士が登場しています。
なんで北広島なの?
お別れの場所&名言誕生の場所だから
クラーク博士がアメリカに帰る船に乗るまでの道の途中で、現在の北広島市にあった、島松の駅逓所で生徒とさよならした時に
「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志を抱け)」
という超有名な言葉を残しました。
この事から、島松駅逓所跡にはクラーク博士の石碑も建っています。
有名な名言は、授業中などに多用していた言葉だったワケではないんですね。
帰国後のクラーク博士はなんか切ない
北海道にいたのは実質8ヶ月程度でしたが、すさまじいインパクトを残していった人として、その後も語り継がれているクラーク博士。
アメリカに帰国した後は、
- 一緒に会社を興した知人にお金を取られる
- 親族から裁判を起こされる
- 病気になる
など、中々切ない晩年を過ごしています。
札幌にいた時が人生で一番良い時間だった、というような事を言って亡くなったとも言われてるそうな
北海道ですごく生き生きしてたんだろうねぇ…
最後に
クラーク博士が北海道で何をしていたのか、ざっくり簡単にまとめてみました。
明治時代の北海道には、開拓使に招かれた外国の先生たちが他にもたくさんいるのに、不思議ですよね。
他にどんな人たちがいたの?どうして外国から先生を招いたの?については、
コチラをどうぞ↓↓