北海道の歴史の本を読んだり、博物館に行くと、長ったらしい漢字の規則などの決まり事を目にする事がありますよね。
北海道国有未開地処分法とか、殖民地選定事業とか。
気になったので、調べてみました。
明治大正にかけて、北海道開拓の歴史に強い影響を与えた決まり事について簡単に分かりやすく、あっさりまとめてみようと思います。
という時に読むと、なんとなく流れも分かるのではないでしょうか。
あくまで個人的な見解による簡単まとめとなっております。
- 明治開拓期な北海道について知りたい
- 歴史の勉強で北海道に関する話が出てきて気になっている
- 博物館で見た、開拓時代の決まり事が詳しく知りたい
という方の参考になれば幸いです。
あくまで、北海道の開拓期に移住者に向けてこういう制度があった、という事を主体にしています。
アイヌの人々と制度との関係性について深く言及はしていません。ご了承下さい。
明治時代
本州から北海道へ移住する際、行政から様々な補助を受ける事もできました。
明治時代に開拓使が出来てからは、移住者への補助制度も状況に応じて名前や内容にも変化がありました。
移民扶助規則/1869(明治2)年
北海道に移住する農夫・工商人を募移農夫・自移農夫・募移工商・自移工商の4種に分けてそれぞれに合わせて行政から補助金を出しました。
- 自移→自分で移住する
- 募移→募集に応じて移住する
特に募集して移民させる募移農夫には、北海道で生活できるよう、しっかりと補助を出しました。
- 家や家を建てるのに必要なお金
- 必要な農具8種
- 鍋や布団などの家具
- 3年分の米・塩・味噌のお金
- 一反歩につき10両、開墾したらお金が出る
というものすごく至れりつくせりな補助を出しました。
1869年には東京で約300人を募集→樺太・宗谷・根室に移住
1870~71年には東北・北陸地方で約300戸を募集→札幌近郊や余市、浦河に移住
させています。
行政が集めて、移住させた人々は補助してもらえる期間が終わると、移住先を離れてしまう事がしばしばでした。
- お金が貰えるから募集に応じただけ
- 北海道に合った農業の仕方がまだ確立されていなかった
- 北海道での生活の仕方がまだ確立されていなかった
などの理由もあり、そもそも北海道を開拓して住み続けてやる!という心意気自体も低い傾向があったようです。
という事で、これ以降の移住についての補助はかなり扱いが雑めになっていきます。
- お米や塩・味噌を買うお金などを出さない
- 行政のお金で移住できる募集の廃止
- 開墾料は10両→2円に減額
北海道へ開拓移住する為の行政からの補助を減らし、その代わりにしっかり開拓をしていた旧士族の団体移民や屯田兵の補助にシフトチェンジしていきました。
ちなみに移住当初に補助が出なくても、背水の陣で北海道へ開拓移住した人たちもいました。
また、この頃には開拓使がアメリカから招いた外国人の先生たちが
北海道の土地を調べたり、北海道で適した農作物や牧場の作り方などを指導していました。
移住農民給付規則/1874(明治7)年
移民扶助規則を更に改定し、自腹で移住する場合に限り、
- 一戸につき家を作るのに関するお金(10円)
- 農作物の種代(1円50銭)
- 農具7種を10点
を支給するとしました。
移住して3年以内に開墾した土地は私有地として、その後7年は税金が免除されるようになりました。
また、特殊な事情がある時にはお米が支給される場合もあったといいます。
北海道送籍移住者渡航手続/1879(明治12)年
移住農民給付規則を改定し、北海道へ籍を移して移住する人に対して、
- 開拓使の付属船を使って
- 移住者本人と手荷物を運び
- 運賃の割引をする
補助が行われる事になりました。
直接お金や物資を与えての移住支援から、免税・移住する時の交通費などを支援する事で間接的な移住支援に移っていきます。
北海道転籍移住者手続/1883(明治16)年
北海道送籍移住者渡航手続を更に改定して、あまりお金が無い移住者に対して、
- 北海道の移住先までにかかる交通費の無償化
- 家を建てるお金
- 必要な器具や農作物の種代など
が支給される事になりました。
北海道へ移住する際の補助制度は、1886(明治19年)に道庁に廃止されるまで行われていました。
が、実際には補助制度や手続きの仕方をそもそも知らない人も多く、実際に制度を活用できた移住者は全体の一部だったと言われています。
殖民地選定事業/1886(明治19)年
北海道庁ができた1886(明治19)年、新しい制度として殖民地選定事業が始められました。
個人で開拓移住に適した土地を選ぶのは難しいので、変わりに行政が適する土地を選んでおく、というものです。
区画の選定をする事で未開地の処分をスムーズにし、移住民が簡単に土地を貰えるようにしました。
この前年には、金子堅太郎が北海道内についての報告書を提出していた事もあり、北海道をこれからどう開拓していくか、利益の出る方法がより意識され出していました。
移住者向けの土地を選んだり測量をするほか、
- 炭鉱会社による道路作り
- 道路に排水溝を設置
- 海上&陸上の交通の便を増やす
- 移住希望者に配布する移住手引書を作る
- 地形・地質・水産物などの調査をする
事にも力が入れられ、北海道の様々な状態がはっきりするようになっていました。
1891(明治24)年には北海道殖民地選定報文が出版され、北海道の状況が一般にも広く紹介されるようになりました。
この頃から、北海道の道作りなどの為に囚人が利用されるようになりました。
土地に関する制度
移住者の補助に対する制度の他に、北海道の土地そのものに対する制度もその時々によって変化していきました。
あくまでも概要だけ、さらっとまとめています。
北海道土地売貸規則/1872(明治5)年
北海道の土地を扱う時の決まりについて、土地の処分方法は売る・貸す・あげるの3つに分ける事が定められました。
官有地・以前からの貸付地・現在の私有地以外の未開拓地は、1人につき10万坪(約33ha)を限度に、等級別の価格で行政から買って(払下げる)私有権が認められる事に。
私有権を認められた行政から買った土地は、10年間土地税が免除される代わりに、一定期間内に開拓を始めないとその土地は取り上げられるとされていました。
地所規則/1872(明治5)年
人里離れた遠い山や山奥の谷、人の行き来すらないような場所や、山林・川などの北海道の土地は全て国が管理するとしました。
国の管理地は買う事が出来、土地の所有権を記した地券を貰え、7年間は土地にかかる税金が免除に。
また、永住者、寄留者から借りた土地でも開墾すれば私有地として認められ、こちらも地券を貰って税金が免除される事になっていました。
北海道地券発行条例/1877(明治10)年
政府が進めていた地租改正事業のひとつです。
- 土地を宅地・耕地・海産干場・牧場・山林の5種に区分
- 山林や川、原野などは官有地として管理
官有地以外、民間の所有が認められた土地の境界・面積・地位・等級を決めて、地券を発行して土地に対する税金を課す事になりました。
官有地として管理している山林については、私有地にしても問題がない場所な場合、希望に応じて貸すor売るなどをしていました。
アイヌの人々の住居などの土地については一旦官有地とし、状況を見ながら私有権を認める形に。
土地についての制度がしっかりしていく反面、不都合が生まれる状況もしばしばあったと言われています。
北海道土地払下規則/(明治19)年
土地土地売貸規則などを廃止にし、改めて北海道の土地に関する決まりが作られました。
- 開墾希望者が自由に土地を選んでいたのを無しに
- 北海道庁が農耕に適する未開地を調査
- 道庁が開墾希望者に土地を指定する
同じ年に北海道転籍移住者手続も廃止され、北海道への開拓移住についての事ががらっと変わる事になります。
様々な公共施設やインフラ整備を道庁がより活発に行う事で、開拓移住者を間接的に支援していく形が定まっていきます。
- 道路・鉄道を作る
- 国有未開地を管理する
- 港を改築する
- 電話を引く
また、その土地に合った開拓方法や適した産業の方法もアドバイスをするように。
自発的な移住者が増える事が目標とされていました。
北海道国有未開地処分法/1897(明治30)年
- 無料で土地が借りられる
- 一定期間後の検査に合格すれば無料で貰える
本州のお金持ちがこぞって北海道に大きな土地を持ち、小作人を雇った大農場を作る時代に入りました。
また、この頃には北海道内のインフラも整備されつつあり、明治初期と比べれば北海道の生活の実情が広く知られている状態です。
明治20年代後半には、開拓が後回しにされていた道東や十勝の原野の貸付が進められていました。
そして、アメリカを見本にした農業方式や農業器具なども利用され、広い土地を利用した農業をしやすくなっていたのです。
一万円札の顔になる、渋沢栄一が十勝清水で十勝開墾合資会社を設立したのもこの頃です。
>>渋沢栄一と北海道
しかし、中々開墾された土地が思ったようには増えず、開墾地として認められた土地は全体の約3割、その他のほとんどは検査を通らずに行政に返還されていました。
1908(明治41)年、国有未開地処分法が改正され、大規模農場だけでなく、小作農にも優しい内容に少しだけ変更されました。
順調に開拓が進んでいるかどうかの検査で合格すれば自分の物になり、不合格なら返還するのは変わらないままです。
国が決めた価格で土地を買う事もできるようになり、お金を持っている人が土地を買い付ける事も増えていきました。
大正昭和以降
明治時代以降も、北海道への移住や新しい農業に対する計画は続けられていました。
- 第一期拓殖計画(明治43年~・15年計画)
- 第二期拓殖計画(昭和2年~・20年計画)
と言われる時期です。
第一次世界大戦のあった大正6~7年頃、日本は外国への輸出で景気が良かったのもあり、北海道への移住がとても盛んでした。
しかし、大正9年に起きた農産物の価格暴落や教育面・衛生面・公共施設などが本州より遅れていることで本州へ移る人も多かったようです。
この拓殖計画で行政が力を入れていた事を簡単にまとめてみました。
この頃に力を入れていた事の結果が、北海道の今にも繋がっています。
飼畜農法・酪農の採用
開墾して農作物を作るのが主で、土地の回復をあまり気にしていませんでした。
その結果、出来上がる作物の質が下がったり、収穫量が減ったりする問題が起きました。
なので、北海道の自然や気候、農家に適した畜産にも力を入れる事で農家の収入をアップしよう!という計画が立てられました。
農業をしながら、牛や馬を飼い、牛乳を作る酪農が推奨されるようになりました。
酪農組合を地域で作り、搾乳や製品の品質調整&販売を行うように。組合の事業には補助が出されました。
また、作物の品種を改良する事で安定した収穫量を得られるようにしたり、農具を改良する事で農作業の効率をアップさせる事も力が入れられました。
一般農業・甜菜糖業の奨励
外国にも売る事ができる砂糖を作ればお金になる!北海道の気候も甜菜作りに適している!
という事で、砂糖の原料になる甜菜の栽培に力が入れられるようになりました。
種や肥料を買うお金や、病害を予防するお金を補助し、栽培の指導などが行われました。
甜菜の他にも様々な農業に関する事業を拡張し、新しい農機具や種を買う時のお金も補助が出されました。
十勝でも甜菜の栽培に力が入れられ、日甜が甜菜を運ぶ為に敷いた私鉄・十勝鉄道の名残がとてっぽ通りとして残っています。
移住を促すキャンペーンや施設の充実
本州では北海道について紹介&宣伝が行われました。
- 活動写真(写真を動画的にスクリーンに映す)を見せる
- 移住で成功した人に体験談を話してもらう
- 北海道についての印刷物を配る
- 北海道移住について新聞記事を出す
- 北海道へ行く船などの賃金を割引にする
- 移住者には移住奨励金をあげる
など、北海道へ移住するとこんなに良いよ!というキャンペーンを積極的に行っていました。
移住の助成として、土地税の免除・数年間の地方税&町民税の免除、開墾や牛馬を飼うお金などの補助を出したり、農具レンタルなどが約束されていました。
また、本州との生活差があまり出ないように新しく道路・鉄道・学校・病院・神社を作る事にも力が入れられるようになりました。
移民取扱事務所が東京・青森・函館・小樽・室蘭の5ヶ所設置され、北海道での事業紹介や移住手続きを説明、割引証発行などが行われました。
特に移住に力を入れていた根室(8ヶ所)・上川(2ヶ所)・釧路(4ヶ所)・留萌(2ヶ所)・十勝(1ヶ所)・宗谷(1ヶ所)には移住世話所もありました。
昭和2年には函館駅前に官費の休泊所も建設されたり、鉄道・農業・移民指導など生活をする上で様々な事を指導する役人も派遣されました。
共同小屋&移民休泊所も設置され、移住者を増やそうとしていました。
また、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年には空襲被害の影響もあり、北海道への開拓などを目的に拓北農兵隊(戦後には農民団と改名)が作られました。
最後に
北海道に移住する時に補助は出ないの?開墾した土地はどうなるの?
など、北海道の移住についての決まり事を簡単にまとめてみました。
北海道にあった決まり事は他にも色々ありますが、
今回はあくまで、移住と土地、農業についての事に焦点を置いていて、特に有名なものについて簡単にまとめてみました。
まとめている最中、北海道の明治開拓期な時代の流れがなんとなく分かって面白かったです。
以上、北海道の移住の歴史を読んでいると、長ったらしい漢字の羅列が多くて心が折れそうになる道民・おかめでした。