明治からの開拓期な北海道に移住する!となった際、本州から渡ってきた人達は目的地までどうやって行っていたのでしょうか?
北海道では鉄道が導入されたのが明治10年代です。
それ以降、札幌以外の都市にも鉄道でダイレクトに行けるようになりました。
それにしても、都市から先に行くのも大変ですよね。
開拓期な頃に、移住者達はどうやって移動していたのでしょうか?
北海道内の主な移動手段
移住時期は春先のワケ
移住する時期は種まきをする事などを逆算して、初春になる事がほとんど。
港やふ頭、駅前などで移住者たちは記念の集合写真を撮っていたりしますが、その姿はずんぐりむっくりな厚木姿となっています。
事前情報として、北海道は寒いところ、と言われていたというのが大きいのでしょう。
北海道内を歩き回るその足元は足袋をはいて、ゾウリやワラジを履いている事がほとんどだったのだとか。
下駄を履いている人は少数派だったそうです。
ゾウリやワラジは江戸時代から運上屋や会所、宿や商店で常に売られていて、明治時代の北海道でも手に入れる事ができました。
さて、がっつり服を着こんで、荷物をごっそり持った移住者たちは目的地までどんな道のりを辿ったのでしょうか。
歩く
駅と自宅までの行き来や市街地まで行くのに、馬車などが無い時はガンガン歩いていました。
片道4~5里を歩いて目的地に行ったり、目的地と往復で5里を歩くのも当たり前の事だったようです。
1里は約4㎞と明治政府によって決められ、1時間で歩ける距離とされていました。
朝のまだ明けきらないうちに出て、用事を済ませたらお昼ご飯の時間も惜しんで夜には帰ってくる、という往復をする人もいた事でしょう。
歩くのが当たり前、だったので駅前などには宿もしっかりありました。
道を通る
アイヌの人々が集落の行き来や山や海へ狩猟、漁をする為に使われていた、アイヌ道と言われる踏みしめ道が開拓初期の北海道では基本的な道として使われていました。
海岸や川沿いにあったり、ケモノ道に重なるように山奥に入っていくなどがありました。
道の整備などが進むにつれて使われなくなって行ったものの、どこに道を作るかという時の判断基準の1つにもなっていたのだとか。
明治6年、お雇い外国人のケプロンの意見を元に計画が立てられた札幌本道が完成します。
函館(亀田村)と森町の港、室蘭から苫小牧と千歳を通って札幌に至る道路です。
馬車も走れるしっかりした道として、北海道で初めて作られました。
明治9・14年には明治天皇の北海道内巡幸(見て回る事)の為に、ピンポイントで整備された道もあります。
陸運・海運を良くする為にしっかり道が作られるようになったのは、明治20年代から。
行政だけでなく必要に応じて民間で作ったり、企業が必要だからと作ったりしてどんどん北海道内の道は整備されていきました。
馬に乗る
各地に点在していた駅逓では馬をレンタルする事もできたので、お金の余裕がある移住者の中には利用していた人もいたことでしょう。
街道沿いにある家では馬を数頭飼って、荷物を引いたり、乗馬用の馬としてレンタルしたり売ったりして生計を立てる事もあったのだとか。
開拓使は洋式の馬車道を作ろうと試したものの、札幌周辺くらいでしか作る事ができませんでした。
明治14年の明治天皇巡幸の時には札幌・函館とその周辺では汽車や馬車を利用して、あとは全て馬に乗って移動していたと言われています。
駅逓についてはコチラをどうぞ↓
鉄道・簡易軌道
北海道で鉄道が作られたのは明治13年の札幌と小樽を繋ぐ手宮線を皮切りに、徐々に北海道の主要な都市を結ぶ鉄道が作られていきました。
明治40年頃までには札幌圏と道東が鉄道で繋がれ、函館から釧路までも鉄道で行けるようになっています。
それまで後回しにされがちだった十勝の開拓は明治30年から一気に進んでいました。
なので、開拓者たちは鉄道で移住先近くまで行った、というよりも鉄道もまだ通ってない更にその先へ入る為に鉄道を利用した、と言った方が近いのかもしれません。
ちなみに明治時代には駅で駅弁も売られていました。
明治23年4月には札幌駅で弁当(15銭)、寿司(10銭)、土瓶付茶(5銭)の立ち売りが始まっています。
また、明治後半~大正にはレールだけが敷いてある簡易軌道という、北海道特有の道もありました。
線路から派生するように更に奥地へ敷かれたレールの上に、利用料を払って馬で荷物を引っ張らせて移動していました。
行き違う時には、荷物が軽い方がレールから一旦降りて、相手を通していたのだとか。
大正期には政府が主体になって敷いた鉄道ではなく、企業などが敷いた鉄道、私鉄も増えていました。
この私鉄に乗って目的地近くまで行く、という事もあったようです。
尚、簡易軌道という名前になったのは戦後で、その前は殖民軌道と呼ばれていました。
時代が進むと共に車が普及していくと利用者が減った事もあって軌道も減少。
1972年には、最後に残っていた浜中町営軌道が廃止されて北海道から簡易軌道は無くなりました。
川を渡る
開拓期な北海道では、今のように橋を車で渡るような事はできません。
そして、移動する中で川を渡るのはほとんど避けて通れないものでした。
対岸へ行くには、大きく分けて歩く、橋を渡る、船を使う、の3つの手段がありました。
橋があれば馬に乗ったまま渡れるかと思いきや、当時そのまま乗って乗れる橋はほとんどありません。
なので、馬に乗ったまま渡れる川の浅さなら馬に頑張ってもらう、無理なら船に乗せる、という事をしました。
馬のお腹が川に浸ってしまったり、鐙が水中に入ってしまうと馬が渡れる限界と判断されました。
ちなみに、自分の足で渡れないという時は、渡し場の人におんぶして運んでもらう場合も。
船を連ねて作った舟橋や、川の中に固定した船の上を歩いて渡る舟底橋など、船を使った橋が架けられている川もありました。
ちなみに、明治11年に函館と平取を往復したイギリス人女性・イザベラバードは人力車ごと運んで貰うという豪快な川の渡り方をしています。
川のサイズは大中小様々ですが、人の手を借りないと渡れないような所には近くに誰かしらが住んでいたので大抵はどうにかなったと言います。
船を出したり川を渡る手助けをして、稼業としている人もいました。
川にかかる橋を渡る
川の流れに対して舟を横にすると、ちょうど川にかかるくらいのサイズだと、舟を固定すれば良いだけなのですぐ対応できました。
屯田兵が住んでいる地域の橋では、他の移住民と屯田兵がすれ違う際、文句を言い合うなどの一悶着がある事も。
その為、移住民の方が厄介事になるのを恐れて先に通るように譲っていたとも言います。
ちゃんとした橋が公共事業として作られるようになってからは、木製の橋が各所で架けられるようになりました。
現代のようなコンクリート製の、永久橋と言われる橋が架かるようになるのは昭和30年代の事になります。
川を船で渡る
特に大きくて深い川の場合は、渡し舟が活用されていました。
石狩川、空知川、千歳川、夕張川、雨竜川、留萌川、天塩川、網走川、釧路川、阿寒川、十勝川、鵡川、余市川などの大きな川で、川舟による運送が行われていた。
収穫したものなどの荷物を大量に運ぶ際にも、船が使われていました。
川を船で渡るってどうやって?
一口に川を船で渡る、と言っても様々な種類の船がありました。
その中でもよく見られたのは、櫓や櫂で漕ぐか、竿で水底を突くようにしながら対岸へ舟を進める渡し舟でした。
しかし、安心安全&効率化の為にどんどん改良版が出て行きます。
明治末期~大正期になると、
- 川に麻などで出来たロープ(親綱)を通し
- そのロープに舟につけた滑車をつなげて安定させ
- 船頭が対岸に繋がっている別のロープ(引綱)を引く
- 又は竿などで舟を進める
という形式のものもよく利用されていました。
川の流れが緩かったり、慣れた客であれば自分たちでロープを手繰って渡る事もあったのだとか。
下りは船に乗っていれば川の流れでたどり着けます。
上りの時には、舟自体を引き子・引き夫と呼ばれる人達が人力でロープを引っ張っていました。
その日の風や川の水かさによって2~5人と必要な人員は変わっていました。
下るのは楽なものの、上るのは大変だったので、舟の運賃も倍くらい差がありました。
例えば、空知川では、赤平から空知太まで約25km、上りには半日~1日かかるのに対して、下りは1時間程度だった、という話も。
また広くて深い大きな川では、外輪船の運航もありました。
しかし、開拓が進むにつれて川自体も整備されていきます。
その結果、今までより川幅が細くなる事で川の水も少なくなり、船での行き来ができなくなる事も。
石狩川が開発によって川が浅くなった結果、外輪船・空知丸が運行しにくくなった為に昭和5年に廃船となっています。
昭和15年には定期便の外輪船・上川丸も廃船となり、川を船で渡る事は大々的に行われなくなっていきました。
この頃には鉄道も明治時代と比べるとかなり発達していたので、車が登場するまで北海道内の長距離&大量輸送は鉄道が主になります。
渡船制度・渡船場
渡船場跡という石碑や看板をみかける事ってありませんか?
この渡船場は、本州の制度を元に開拓使が明治6年に北海道の渡船制度を制定しました。
官設と私設のものとがあり、開拓が進むによって川の行き来が必要になった際、自然発生的に出来たものもありました。
舟と棹と土地勘があればすぐ渡し守として仕事ができたので、私設の渡船場は需要に合わせて各地に作られました。
夏と冬で変わる川の渡り方
北海道の川は、夏と冬では様子ががらっと変わりました。
夏には川の水が無くなって、船の底が川底についてしまったりでうまく先に進めなくなってしまったり。
冬には川が凍り付くので、むしろ歩いて渡る事もできたのだとか。
特にオホーツクの川では冬になると川が凍る&流氷がくるので、その上を渡って通行する事が可能になりました。
12月初め頃~3月中頃までは、大きな河川も凍ってしまい、渡し舟が使えなくなってしまうので、代わりに氷橋が作られました。
氷橋は川岸に生える柳や丸太などを敷いてその上に水をまき、凍らせて作った橋です。
馬そりなどを使って生産物を輸送する為にも氷橋は各地域で作られていたと考えられています。
移動中はどこに泊まった?
移住先に向かうまでに日数がかなりかかります。
その間、どこかで夜を過ごさなければなりません。
お金に余裕があれば宿屋を使ったり、皆が共有で使えた小屋を利用したり、野宿させざるを得ない場合もあったようです。
宿屋
移住者が北海道へ到着し、港近くで1泊するとします。
明治37年の函館港のとある宿屋では1泊3食付きで40銭。
当時はもり・かけそば一杯が3銭で、大工の日当が1円だと考えると、なかなかお高いですね。
移住者は移住証明書という移住前に本籍地から発行を受けた、パスポートのようなものを持っていました。
この移住証明書を見せると年にもよりますが、汽車・汽船の運賃は半額、宿泊も割引を受けられるようになっていました。
移住者が宿泊した宿は2食付がほとんどで、宿によっては先を見越して、握り飯をもたせてくれるところもあったのだとか。
馬のレンタルができる駅逓も、宿屋のように使われたりしていました。
移住者が受けられた割引や補助などについてはコチラ↓をどうぞ。
民家
移住先が市街地から遠く、開拓も進んでない所だった場合、宿屋がない事もよくあります。
そういった時は、先に住んでいる農業者の家や、アイヌの人の家に泊まる事も多かったのだとか。
明治初期の移住では歩く事が基本だったので、老人や子供が疲れたり病気になると先に進めなく事もありました。
その場合、近隣に住んでいたアイヌの人に事情を話して家に預ける事もあった事なのだとか。
小屋・野宿など
明治初期、日本海側の増毛からオホーツク海側斜里に至る沿岸には、商人が経営している漁業施設がたくさんありました。
その中でも番屋・出稼小屋・倉庫は移住者が宿として利用する事もできました。
小屋のほとんどは無人で、来客がある時には世話を任されているアイヌの人や、永住人と呼ばれる老人の番人夫婦が対応していました。
明治期に根北峠・金山峠・鶉山道・増毛山道にあったと言われています。
峠までが遠い、近くに民家も無い距離にあり、治安のこともあっておおむね老夫婦がお助け小屋を管理していました。
小屋、と言ってもピンキリで、場所によっては野宿と大差ない所もあったのだとか。
比較的良い状態の小屋の例を出すと、十勝・広尾には約20坪の広さがあり、常時、米・味噌・鍋が用意されてる小屋があったのだとか。
冬期間も、冬に移住者が通ることはほとんどなかったものの、旅人の凍死者が毎年のようにあったために近在の住民が常駐して、旅人の便宜を図っていたといいます。
また、谷や川の近くには通行屋と呼ばれる掘っ立て小屋が建っている事も。
8畳程の小屋の中にはゴザが敷いてあり、鍋や桶、茶碗が置かれていて、移住者などが勝手に泊まることができたのだとか。
また明治後半にさしかかってくると、土地の区間測量を行うために作られ、そのまま残された測量小屋が移住者の休息所として利用される事もありました。
最後に
明治開拓期な北海道で使える移動手段って何だったの?
泊まれる場所はあったの?
について簡単にまとめてみました。
今となっては寂れた場所、と思ってしまうようなところでも、実は明治大正期にはかなり栄えていて、宿屋や料理屋さんが軒を連ねていた、という地域もあります。
本州から北海道への移動手段が代わり、北海道の中での移動手段が変わっていった中で、栄えていた場所に人が通らなくなり、結果として寂れてしまった、という事なんですね。
こんな辺鄙な場所来ても、何もないよ!と思ってしまうところこそ、開拓期の北海道では輝いていた場所かも知れませんよ。
以上、十勝の大津と言えば開拓期の話になると盛大に輝いていたんだから、その辺もう少し地元の博物館とかで大々的に展示紹介とかしないんですかと思っている十勝民・おかめ(@okame_0515)でした。