北海道の移住の歴史を調べている中で、昭和の屯田兵制度とも言われている拓北農兵隊について興味が出てきました。
なつぞらの天陽くん一家も、拓北農兵隊がらみで北海道に来たんじゃなかったっけ?
と考えると神田日勝について調べてる時に、ちゃんと知っておけば良かったと今更後悔してます。
- 北海道と戦争の関係が知りたい
- なつぞら見て興味が出てきた
- 拓北農兵隊って言葉が何なのか気になる
- 北海道の移住話が知りたい
という方の参考になれば幸いです。
拓北農兵隊で有名な小説・ロビンソンの末裔(開高健)は呼んでる途中です。
拓北農兵隊って何?
そもそも拓北農兵隊(たくほくのうへいたい)ってなんなの?
についてざっくり簡単にまとめてみました。
ちなみに、集団帰農者とも言われていますが、ややこしいので拓北農兵隊で表現は統一しています。
太平洋戦争末期の空襲被害
1944(昭和19)年11月~1945(昭和20)年8月15日まで、東京だけでも100回以上は空襲被害が出ていました。
最初は軍需目的で、軍の飛行場などの戦争に関する重要な施設が狙われました。
しかし、思ったように重要な場所に爆撃ができないと気づいた米軍は、昭和20年には無差別爆撃になり都市部の市街地も空襲で破壊されるように。
そこで暮らしていた、たくさんの人々が空襲で家や家族を失ったのです。
ちなみに拓北農兵隊への募集が始まったのは、1945年6月頃のことです。
拓北農兵隊が作られた理由
終戦を迎えるちょっと前の1945年3月頃から、政府はこんな事を考えていました。
- 空襲などで被害を受けた人々へ救済をしたい
- でも食料をあげるとしても色々難しい
- 家などはどうする?
- 北海道の農村などでは戦争によって人手が足りない
- 戦災にあった人々に衣食住を提供するのに農村への開拓移住が丁度良い
という事で拓北農兵隊ができました。
当時の北海道ではまだ農地にできる土地がたくさんあるのにほったらかしにされている
戦争で人手が足りないから農家さんが困っている
それなら、空襲などで家を失った人に北海道へ行ってもらおう!と政府が考えたのです。
雪印メグミルクの創業者にあたる黒澤酉蔵は、拓北農兵隊の生みの親といわれています。
そして移住者の取り締まり、宣伝、斡旋、誘導、輸送など全ての事を民間の協力団体「戦災者北海道開拓協会」が行う事としました。
拓北農兵隊の募集内容
でもいきなり困ってるなら北海道へ行こう!と言われても戸惑いますよね。
応募資格
拓北農兵隊に応募するのに難しい資格は必要なかったようです。
体が丈夫で真剣に農地を耕す熱意がある15~60歳の男性
または当てはまる男性を一人でも含んでいる家族
であれば応募が可能でした。
北海道開拓への呼びかけとして
来たれ、沃土(よくど)北海道へー戦災を転じて産業再編成
と言われていました。
また、北海道へ行く気持ちを高めるために拓北農兵隊の為に詳しい事が書かれたという配布物や、新聞記事などで募集について紹介されていたりしました。
申し込みには住んでるところの区役所などに行くと手続きができたようです。
詳細を知りたい時には、戦災者北海道開拓協会や戦災者移動相談所などの相談所で詳しく聞くことが出来るようになっていました。
移住者への補償や特典
- 移住地までの鉄道費用は無料
- 家財輸送も無料
- 移住地への誘導や案内は協会や町村が行う
- 自宅は用意する
- 一戸あたり1町歩(1ha)の農地を無料で貸し出し
- 農業に必要なクワやカマなどの道具や野菜の種は無料で用意
- 移住した後のご飯も用意
- 生活が難しい人には一人あたり月30円内×6ヶ月補助
- 開墾費用、労働力としての牛馬購入費なども補助
そして、やる気があって、北海道に本腰据えて行きたいという人には将来は10~15町歩の農地を無料で貸し出しorプレゼントという事まで言われていました。
ちなみに1町歩=1ha=100m×100mの広さです。
北海道についての宣伝
北海道ってどんなとこなの?と不安な人の為にラジオや新聞などで情報も公開されていました。
戦争中なので、北海道についての情報が他から得られない状態でした。
- 北海道には農耕に使える土地がたくさん残っている
- 北海道の冬は他と比べれば寒いが、薪や木炭、石炭などの燃料が豊富なのでむしろ屋内で言えば他よりも過ごしやすい
- 夏はまあまあ暑いけれど、朝夕は涼しいので過ごしやすいと感じられるはず
- 教育面でも大学や専門学校、農学校や中学校や小学校などもある
- 通学は遠いところもあるかもだけれど、教育には問題ない
- 医療機関も都市には大学付属病院や総合病院があるし、農村にもお医者さんや産婆さんはいる
これらの情報は、
新聞では開拓の為の移民についての賛美や拓北農兵隊の良さ、実際に移住者が行った後になると現地での生活の成果などが記事になっていました。
という事で夢と希望を抱いて北海道へ移住する事を決めた人がたくさんいました。
北海道へ行けば素晴らしい農地がもらえるし、住宅もあればちゃんと道路もある。
食べ物もあるし、もしもの時にはお金の支援もある。
空襲で家を無くし、生活がままならない人々は新聞や政府を信じて北海道へ渡りました。
北海道には空襲被害がないという事で、移住を決めた人もいたことでしょう。
拓北農兵隊への募集などが積極的に行われていたのは1945年6月頃からの事です。
拓北農兵隊の現実
さあ北海道へ!
夢と希望に満ちた移住への道を踏みだした人々を迎えたのは過酷な現実でした。
終わらない空襲
当時、東京など都市部から北海道へ渡るには
- 東京から機関車で青森へ
- 青森から青函連絡船で北海道へ
行く必要があり、移動するのにも日数がかかりました。
1945年7月頭に拓北農兵隊として北海道へ出発した人々に、空襲被害は続きました。
- 7月13、14日の北海道空襲で青函連絡船が沈む
- 7月28、29日の青森空襲で青森から先に進めない人達が更に困る
北海道へいけばなんとかなる、と思ってやってきた人々の心境を考えると心が痛いです。
なんとか軍の船に乗せてもらったりして北海道へ渡れても、実際の北海道は話に聞いていた夢の大地とは程遠いものでした。
拓北農兵隊の現実
実際に移住したら話に聞いていた通りだったのかというと、現実は厳しいものでした。
- 土地が無い
- 家が無い
- 道路も無い
- ご飯も無い
- お金もちゃんと貸して貰えない
- 学校も遠すぎるor無い
- 先に住んでる人たちから邪見に扱われる
- っていうか冬めちゃくちゃ寒い
土地があったとしても、過去に北海道へ移住した人が農地に向かないからと諦めた土地で、結局農地としてすぐには使い物になりませんでした。
そして、土地が無いからとなんとか近所の農家さんに援農(農作業の手伝い)をしに行っても、不慣れなのであまりいい顔はされません。
移住した人々は魚屋、印刷業者、大工、学校の先生、絵描きや会社員などなど。
もともと都会の人で農作業とは無縁だった人にとっては、無理難題が多かったのです。
例えば、開拓団として入植した地区に30世帯が入ったものの、8月15日に終戦になると半分以上が帰り、翌年には10数戸になった場所もあります。
なんとか北海道に残って頑張った人達も、水害冷害減反政策などなどで農家を辞めていったのだとか。
NHKの朝ドラ『なつぞら』で天陽くんのモデルとなった、画家の神田日勝も拓北農兵隊として十勝鹿追に移住しています。
小学校の頃に家族で募集内容を信じて移住し、実際には話とは違い、苦労されたそうです。
【なつぞら・山田天陽のモデル】十勝の画家・神田日勝ってどんな人?
1945年の移住者数
1945年7月~11月の間に入植が多かった順でまとめると
- 網走 約700戸・約3800人
- 十勝 約690戸・約3400人
- 上川 約690戸・約3400人
- 空知 約400戸・約2100人
- 石狩 約370戸・約1800人
で合計では約3460戸・約1万7300人が本州の都市部から北海道へ一時的にも移住していました。
全員が土地がない、家が無い、土地の人は冷たい、すぐ帰る!という訳では無かったようですが、大半が夢破れて来た場所に帰っているようです。
募集内容盛り過ぎ問題
実際の移住内容
移住した人々は、応募した時に聞いた話とは全然違う経験する事になりました。
- これまで開拓者たちが挑んでダメだった、どうしようもできない土地を割り当てられた
- 住む場所はかつての牛舎で雨漏りと臭いがすごかった
- なんとか小屋を建てたものの冬が寒すぎた
- ご飯の配給は遅い&量が足りない
- 農地が無いから近隣の農家に手伝いにいったが不慣れ&栄養失調で体が思うように動かずにお互い困った
- 都会の人が自分たちの村で闇市を広げようとしてるんじゃないかと近隣住民に疑われた
場所によってはそれなりの土地があったり、農家さんとの関係が良好でご飯もたくさん食べられたりした所もあったそう
しかし、募集広告のような内容で過ごせた人はほとんど居なかったのではないかと考えられています。
拓北農兵隊の問題点
移住者たちは農業の経験がほとんどなく、気候風土もしんどく、
入植地が農地に適してないし、政府側のフォローが不十分で、
しかも移住したらすぐ終戦したので、空襲や本土決戦におびえる事もなくなりました。
他にも色んな理由で北海道での生活を諦めた人達もいました。
- 募集広告の内容で期待してたのに心が折れた
- 北海道での生活が厳しすぎて故郷が恋しくなった
- 寒さと雪の多さ、農作業に対する自信が無くなった
- 終戦後に出身地の話しを聞いて帰りたくなった
- これまで就いていた職業になりたくなった
- 子供にきちんとした教育を受けさせたい
- 冬に移住先じゃないところに出稼ぎに行ったらそのまま住んじゃった
- 種や肥料などの借金が返せずに夜逃げしていった
などの理由で大半の人が離農したんだとか。
行き先を無くし困った人々を減らす為の棄民政策だった、という見方もあります。
戦後の開拓移住と比べると棄民政策のひどい扱いだった、と評価される事もあるようです。
実際に拓北農兵隊として移住した人の実体験を読める本がこちらの本です。
東京など都市部での暮らしや、空襲など戦争体験、北海道への移住やその後の生活について、様々な人による体験談が紹介されています。
読み物としても(戦争関係の本なので難しい漢字は多めですが・・・)読みやすいかと思います。
戦後開拓
1945年8月に終戦を迎え、11月に満州からの引き揚げ者や戦争から帰ってきた人達へ仕事を提供するために日本各地への開拓事業が行われました。
その中で北海道への開拓移住も拓北農兵隊から拓北農民団として名前を変え、計画は続けられていました。
農作業に不慣れな人より、農家の次男や三男など農作業に慣れているけど自分の土地がないという人を中心に募集された時期もあったようです。
戦後の食料不足を解決するために計画が進められましたが、農地改良よりもその周辺のインフラ整備(排水路や道路、水道の整備など)に重点を置いた地域もありました。
拓北農兵隊が作られた理由
激しくなる戦争被害
東京の大空襲として特に有名な3月10日以降も日本は空襲被害に襲われました。
- 3月12日 名古屋
- 3月13、14日 大阪
- 3月17日 神戸
- 4月13、14日 東京
3月10日の大空襲の被害だけでも、亡くなった人は8万~10万人、負傷者は約4万人、家屋への被害は約27万戸、約100万人が被害にあいました。
北海道へ開拓移住計画始まる
- 3月15日 「大都市に於ける疎開強化要綱」が閣議決定
被害を防ぐ為の疎開だけでなく、食料生産の為に疎開する事も行おうという事になりました。
つまり、戦争の罹災者を北海道へ移住させようという話しが出てきたのです。
北海道には50万町歩の土地が使われていない。農業用地として利用すれば食料も増えるし戦争にも安定して戦いに出られる、罹災者や疎開者を北海道に移住するのはどうだろうか
という話しが5月21日に政府によってまとまりました。
戦争へ召集された人で労働力が不足してるだろう、人手が足りなくてほったらかしの農地があるだろう、と政府側は移住計画をすぐに進めようとしました。
- 5月31日 「北海道疎開者戦力化実施要綱」が閣議決定
肝心の受け入れ先になる北海道庁は、体制が整えられていないから、と1度は断りましたが代わりに民間団体が移住者へ協力体制を作る事になりました。
- 7月6日 戦災者北海道集団帰農の第一次壮行会が執行
この時に「帝都戦災者の北海道開拓集団帰農者を拓北農兵隊と命名する」という発言が当時の東京都長官から言われました。
これが拓北農兵隊の言葉が公に出てきた最初だと言われています。
北海道庁も人手不足だった
政府の話し合いで拓北農兵隊についての実施要綱について決まってから、
1945年6月頭に道庁へ戦災者を北海道へ入植させる準備をして欲しいと政府から話がきました。
しかし、
- 測量など入植に適した農地の調査
- 道路や家など生活の準備が必要になる
- 色々やらなきゃいけないから3年は時間を欲しい
- 農作業した事無い人にいきなりは無茶すぎる
- 受け入れ側の北海道が人手不足もあって体制を整えきれない
という事で道庁は拓北農兵隊の計画をすぐに対応できないと断ります。
北海道側が、移住者の入る土地の選定や受け入れ体制を整えるのがそんなにすぐには人手も足りなくて無理だ!
というので、代わりに黒澤酉蔵たちが民間の協力団体を立ち上げる事にしました。
この民間団体が主体となって、拓北農兵隊の計画が本格的に動き出すようになりました。
しかし、実際には思ったようにはいかなかったのは、これまでご紹介した通りです。
拓北農兵隊×北海道ゆかりの人々
拓北農兵隊に関わった、北海道にも関係が深い人について3人だけざっくりまとめてみました。
北海道の歴史や本などでも名前が出てくる人達なので、意外な関係に驚きました。
黒澤酉蔵について
酪農こそ健土健民の母が有名な言葉
北海道酪農の父、とも呼ばれる
- 1885(明治18)年 茨城県生まれ
東京で学生だった17歳の時、足尾銅山鉱毒事件について活動している田中正造に感動し、4年行動を共にしました。
学校を卒業する直前に母が亡くなり、幼い兄弟を養う為に北海道へ渡ります。
- 1905(明治38)年から北海道で牧畜の仕事に
- 1925(大正14)年に北海道製酪販売組合を設立→今の雪印メグミルク
- 1933(昭和8)年に酪農義塾を創設→今の酪農学園大学
政治にも関わり、その中で戦災者を北海道へ移住させる計画を説きました。
更科源蔵について
アイヌ文化研究家、詩人
コタン生物記が有名
- 1904(明治37)年 新潟から今の弟子屈町あたりに移住してきた両親の間に生まれる
東京の学校に通った後、故郷で仕事をしながら詩作に励みました。
- 1945年 集団帰農者受け入れの為に北海道農業協会から東京へ派遣
相談員として派遣された彼らの中には、北海道へ来たってろくな土地も無ければ食料もないと正直に説明する者や、ウソを吐いて戦災で焼け出された人を集めて一緒に北海道へ帰るのは自分たちだと悩んでいたそうです。
町村金吾について
1959~71年北海道知事
兄は町村農場を創設した町村敬貴
- 1900(明治33)年 札幌に生まれる。父は札幌農学校で学んだ町村金弥
政治家として活動していました。
警視総監であった1945年に黒澤酉蔵と共に拓北農兵隊の計画を進めています。
北海道に残っている石碑や史跡などで、町村金吾の名前が出てくる事がよくあるので気になります。
最後に
北海道と拓北農兵隊について調べた事をまとめてみました。
十勝に住んでいますが拓北農兵隊について知る機会が少なく、有名な人で言えば神田日勝ですが、彼について知る事が出来たのも朝ドラや先人カードきっかけでした。
また、雪印乳業と関係が深い黒澤酉蔵やアイヌ民族についての本を多く執筆している更科源蔵なども関わっていた事を初めて知りました。
まだまだ知らない事だらけなので、もっと色んな事を知りたいと思います。
まずはロビンソンの末裔をちゃんと最後まで読んでみますね。
以上、北海道と開拓移住の歴史が気になっている十勝民・おかめでした。
参考書籍
知られざる拓北農兵隊の記録 鵜澤希伊子
拓北農兵隊 戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録 石井次雄
新版 北海道の歴史 下
など