陸別道の駅に資料館が併設されている関寛斎。
2019年には先人カードも配布されていました。
72歳で北海道開拓にチャレンジしたすごいじいちゃんだって事は分かったけど、実際何をしてた人なの?
と気になって調べてみたら、
- 銚子(千葉県)生まれの蘭医学者で長崎で勉強
- 徳島の蜂須賀藩で藩医
- 戊辰戦争の時には新政府側の軍医
- 明治維新後は約30年徳島で町医者だった
- すごいお医者さん
という事が分かりました。
調べた事をざっくりまとめてみたいと思います。
ドライブがてら陸別行きたいけど、あの資料館入るかどうか迷ってる、という方の参考になれば幸いです。
※関寛斎は何度か改名していますが、便宜上『関寛斎』で通してまとめています。
関寛斎ってどんな人?
生まれは銚子
1830(文政13)年 今の千葉県に吉井家の長男として生まれる。幼名は豊太郎
13歳の頃、叔母の家にあたる関家の養子になり、養父・関俊輔が開いていた私塾・製錦堂で儒学などを学んでいます。
佐倉順天堂で蘭医学を学んだ青春時代
1848(嘉永元)年 同じく千葉県にあった佐倉順天堂に入門
佐倉順天堂は蘭学(オランダ医学)を教える学校兼病院でした。
佐藤泰然の下で、住み込みで病院の手伝いをして働きつつ、医学の勉強をする生活を約5年過ごしました。
順天堂外科実験という詳細な手術の記録を残し、当時の医療についての貴重な資料となっています。
この頃から関寛斎と名乗るようになりました。
当時、佐倉順天堂は大阪の適塾と並ぶ二大蘭学塾と呼ばれていたのだとか。
結婚&勉強の日々
佐倉順天堂を卒業後、22歳で8つ年下の君塚あい(愛子)と結婚
関俊輔(養父)の姪っ子ちゃん、関寛斎からすれば従妹にあたります。
26歳の頃に銚子で病院を開業しますが、その数年後に日本ではコレラが大流行しました。
その時、寛斎に江戸でコレラ対策を勉強しておいで、と援助してくれたのが浜口梧陵です。
ヤマサ醤油7代目当主
寛斎の10歳年上で銚子で知り合う。
良い人材に学費を出してあげたい人。
寛斎や家族に何かと世話を焼いた恩人。
江戸でコレラ対策を学んだ寛斎の力もあり、銚子ではコレラの流行が抑えられたと考えられています。
陸別の道の駅では、関寛斎と浜口梧陵の特別パッケージなヤマサ醤油セットを買えます。(2021年6月現在)
また、浜口は寛斎に長崎に来たポンペの下でもっと勉強しておいで、と大金を出してくれました。
1857(安政4)年、幕府の要請で長崎に来たオランダの軍医。
フルネームはポンペ・ファン・メーデルフォルト。
長崎で日本最初の近代的病院になった長崎養生所を作る。
この長崎でも働きながら勉強する、佐倉順天堂なスタイルで約1年、寛斎は学んでいます。
蜂須賀藩の藩医になる
長崎から帰ってきた寛斎は地元・銚子で改めて病院を開きますが長くは続きませんでした。
当時、徳島にあった蜂須賀藩の藩医にならないか?と佐倉順天堂で学んでいた頃の先輩から声がかかったのです。
そして1863(文久3)年、33歳で寛斎は千葉県から徳島県に移る事になりました。
藩医=藩のお医者さんになるという事は、武士の身分(禄籍)になる、という事です。
禄という給料を貰える公務員、と考えれば分かりやすいでしょうか。
元々は農民の子だった寛斎が武士と同じ身分になる、という当時では凄く珍しい事に。
藩医として藩主・蜂須賀斉裕やその娘の賀代姫を看たりする傍ら、武士なので軍事訓練にも参加しています。
戊辰戦争では野戦病院の院長として活躍
1868(明治元)年、寛斎が38歳の頃に日本は明治維新のゴタゴタ真っただ中
その中で上野彰義隊の討伐隊の新政府側の軍医として付いていったり、戊辰戦争の中で奥羽出張病院の院長として今の茨城・福島に赴任しています。
新政府軍・旧幕府軍関係なく負傷者の手当をし、大きな赤十字の旗を掲げたこの野戦病院は、日本の野戦病院の第一号とも呼ばれています。
この時の状況も奥羽出張病院日記として、寛斎は詳細に記録しています。
新政府側の勝利で戊辰戦争も終わり、その後の人生も身分的には安泰が約束されていた寛斎でしたが、その後明治6年には禄籍を返して一般平民に戻っています。
徳島で親しまれた町医者として30年
1873(明治6)年 徳島や山梨で院長をつとめた後、徳島で改めて自分の病院を開く
貧しい人には無料で診察をしたり薬を出したり、天然痘の予防接種も無料で行っていたのだとか。
気さくな人柄で地域住民から愛され、病院に至る小道は「関の小路」と呼ばれたり、病気予防に関大明神と書かれたお札が作られる程でした。
生活は質素・倹約をモットーにして、そこから生まれる経済的なゆとりで社会福祉にも取り組んでいたそうです。
北海道へ移住したのは72歳
1902(明治35)年 北海道へ開拓移住
徳島で地域住民に愛されるお医者さんだった関寛斎ですが、北海道への開拓移住を決意します。
そして亡くなるまでの約10年を北海道・陸別で息子たちと精力的に活動していました。
詩人として作家活動をしていた徳富蘆花と親しい間柄になったのも北海道へ移住してからの話になります。
もっと詳しく関寛斎の事を知りたい!という時にはコチラの本がオススメです↓
関寛斎と北海道
ものすごくざっくり言うと、関寛斎は72歳から82歳まで、亡くなるまでの約10年を北海道で過ごしています。
- その中で息子と一緒に頑張ったり
- 最愛の妻を病気で亡くして意気消沈したり
- 十勝・豊頃の報徳社でメンタルケアしたり
- 冷たい川に浸かる健康法を冬でも続けていたり
- 牧場経営の考えで息子とぶつかったり
なんだりかんだりしています。
ざっくり簡単にまとめてみました↓
北海道に開拓移住した理由
徳島で関大明神と言われる程、地域住民から慕われるお医者さんだった関寛斎がどうして72歳という年齢で北海道へ開拓移住する事にしたのでしょうか?
明治43年に関寛斎が書いた関牧場創業記事では、その理由が語られています。
だいたいこんな感じの事が書いてあります↓
老いても健康だから国の為に北海道開拓したい!という事で北海道陸別に来た、みたいな事が書いてあります。
北海道に行くと決めてから、奧さんと2人で家の物置小屋みたいな所に住んで、鍋とお椀2つだけの生活を敢えてやっていたそうです。
お風呂にも入らず、食材も敢えてランクを下げてみたり。
また、関寛斎は最後の蘭学医とも呼ばれます。
明治になって30年が経ち、日本ではイギリスやドイツなどからの医学も入って来ていました。
医学の主流がオランダからイギリスやドイツに移り変わりつつあったのです。
関寛斎が学んだ蘭医学が、この頃にはもう時代遅れになりつつあったから、
北海道に開拓移住することで社会に貢献したかったのでは?
という考えもあります。
最初に入ったのは石狩の樽川
いきなり陸別へGO!
したワケでなく、最初は札幌農学校を卒業した息子・又一が試しに始めていた石狩の樽川という場所に行っています。
そこから、奥さんを札幌に残して樽川牧場で働き、陸別の土地が手に入れられる準備が整ってから陸別に移住しました。
この時、奥さんは体調面の理由などから札幌に残っています。
ちなみに、本格的に移住する前に2回程、北海道まで実際に足を運んで見ています。
息子は札幌農学校で勉強し、卒業論文には「十勝国牧場設計」として十勝についての事を書いています。
陸別と関寛斎の戦い
- 馬がたくさん病死してしまう
- 作物が思ったように育たない
- 虫がすごくて体がやられる
などなど、開拓の苦労もたくさんあったようです。
息子・又一と一緒に頑張ってくれていた片山という夫婦の頑張りもあり、皆で苦労を乗り越えようと努力していました。
寛斎が長年連れ添ってきた奧さんと74歳の時にお別れを迎えました。
この時、寛斎は気力ナシ・食欲ナシの抜け殻状態で、今でいう鬱状態になってしまいます。
豊頃・報徳社の二宮尊親と交流
豊頃に入植していた二宮尊親は、二宮金次郎の像のモデルとなった二宮尊徳の孫です。
二宮尊徳の教えはちょうど関寛斎が銚子で暮らしていた時から知っていた事で、尊敬する人物の一人だったのだとか。
尊徳の霊前に手を合わせたり、孫の尊親と語らったり約1週間滞在した事でメンタル回復ができました。
牧場に戻ってまた以前のように精力的に働けるように。
また、徳富蘆花という明治時代の作家さんとも交流を持ち、ロシアの作家・トルストイという推しの話を楽しんでいます。
関寛斎について『みみずのたわこと』という本の中で触れられていたり、陸別に鉄道がとおったから家族で来たよ!という辺りに仲の良さが伺えます。
82歳での最期
潅水で健康を保ちつつ、精力的に頑張っていた関寛斎でしたが、82歳で自分の生を終わらせる事を選びました。
- 息子との牧場経営の意見衝突
- 親族間のお金問題
など頭を悩ませる問題があった事も原因だったと考えられています。
拳銃で最期を迎えた、という話もありますが実際はモルヒネを服用しての事でした。
息子・関又一について
関寛斎と一緒に家族が陸別で牧場経営を頑張っていました。
その中でも、札幌農学校で色々学んでいた関又一という息子さんについて簡単にまとめてみたいと思います。
- 関寛斎が49歳の頃に生まれた七男
- 16歳で札幌農学校に入学
- 卒業論文は十勝調査の事
- 最初に牧場作ったのは石狩の樽川
- その後改めて陸別の土地を入手して移住
- 陸別移住の時20代後半の若者
- 農学校で習ったアメリカ式な牧場経営を望んだ
- 十勝監獄典獄・黒木鯤太郎の娘が妻
- 日露戦争に召集経験アリ
- 大正期には陸別を離れ東京に引っ越し
寛斎は二宮の報徳社を見習って小作人に牧場の土地を分ける事を願い、息子は大きな牧場で人を雇うアメリカ形式のの考えでぶつかっていました。
この意見の衝突なども関寛斎の命を縮めた原因だったのでは?と考えられています。
ちなみに、他にも息子や娘はたくさんいてその中の息子の一人(余作)は網走監獄の獄医になったり、ロシアに渡ってお医者さんとして働いている人もいました。
関牧場は少しずつ土地が分けられ、又一が陸別を離れた大正9年頃には、ほとんどが手放されています。
晩成社の人と交流はあったの?
- 又一が生苗花の牧場に依田勉三を訪問
- 寛斎が鈴木銃太郎を訪問
関家よりも先に十勝入りしていた晩成社の人々とも、多少なりと交流はあったようです。
命の洗濯について
関寛斎がまとめた、命の洗濯という健康について書かれた本について、
簡単にまとめてみました↓
すごい要約すると、海水浴と潅水(水浴び)は健康に良いぞ!という内容です。
実体験を交えてどれだけ灌水の健康法がオススメかを説いている本になっていました。
実際の内容が気になる!という時は、資料館の売店で一冊300円で買えます。
関寛斎&関寛斎資料館についての本も一冊1,000円で買えるので、資料館に入る時間が無いけど気になる!という方にオススメですよ。
関寛斎資料館
関寛斎資料館は陸別道の駅に併設
開館時間 9時半~16時半
休館日 毎週月曜日・祝日の翌日
入館料 大人300円(中学生以下・陸別市民無料)
陸別の道の駅『オーロラタウン陸別』の売店横から入館する事ができます。
入館料は売店でお支払いする事になります。
資料館で見られるもの
- 関寛斎が実際に使っていた薬箱などの道具
- 佐倉順天堂などで行った外科手術の記録
- 奥羽出張病院での記録
などの実物を展示ケースの中に見る事ができます。
また、白里と号して詠んだ歌もあり、インテリな感じが凄くします。
関係書籍もたくさん紹介されており、関寛斎ってどんな人なの?もっと知りたい!という時の道しるべにもぴったりです。
息子・又一関係の展示品
- 関家の家族写真に写っている
- 札幌農学校の卒論・卒業証書の複製
- 又一が貰った明治時代の賞状など
家族写真で見ると、どれだけ関寛斎と息子達の年の差があったかがよく分かります。
私は見逃してしまいましたが、又一の婚姻届(明治40年)も展示品にはあるそうです。
また、資料館では関牧場の再現ジオラマが音声紹介と共に見られます。
関寛斎の人生について簡単にまとめられた映像も見られるので、
文字読むのめんどいし、まず誰なの?
という方は映像を見てから展示品を見て回る事をオススメします。
陸別で感じる関寛斎
関寛斎の銅像
道の駅を出て、左の方に歩いて行くとすぐ見えてくる公園に関寛斎の銅像が立っています。
この公園の中にはなつぞらの柴田家のセットの一部だったサイロが移設されていたり、陸別に鉄道が通った事で関寛斎の元に遊びに来た徳富蘆花の石碑なども見られます。
関寛斎翁碑
資料館に入ってすぐの壁に飾られている石碑の魚拓(?)のようなものの元の石碑が、ユクエピラチャシ跡にあります。
この石柱の先にあるチャシ跡の上にあるので、夏など草が生い茂っている時はいる程度の服装と覚悟が必要です。
この上に、
背を向ける形で立っているので草を踏み分けないと前面を見られません。
寛斎が陸別の斗満に向かう途中、ユクエピラチャシの上に登って、原生林を見下ろしながら改めて頑張るぞ!と決意した場所にあたるのだとか。
他にも、斗満駅逓所跡を知らせる看板や、関寛斎最後の地と書かれた木の標識などもあり、そこかしこで『関寛斎』の名前を見る事が出来ます。
最後に
関寛斎について調べた事を簡単にまとめてみました。
資料館に行くと、実際に関寛斎が使っていた薬箱などの道具や、書いた本などが展示されていて、存在感を強く感じる事ができて楽しいです。
開拓者っていうよりも、お医者さん!という感じがするので、幕末明治のお医者さんに興味がある、という人にもオススメかと思います。
以上、関寛斎の息子の方が気になって仕方なくなってきた十勝民・おかめでした。