2019年から十勝清水の図書館で、先人カード『渋沢栄一』が貰えるようになっていました。(現在は配布終了しています)
歴史の勉強が好き!と言っている私ですが、正直に言うと渋沢栄一ってどんな人なのか、全く知りませんでした。
- 2024年にお札の顔になる
- 2021年の大河ドラマの主役
- 幕末の人らしい
- サッポロビールにも関係がある人
という事しか知らなかったのです。
気になったので調べてみた事をまとめてみると…。
簡単に言うと、明治時代に銀行やたくさんの会社の設立に関わって、その会社が北海道の発展にも大きな影響を与えた人、という事が分かりました。
みずほ銀行と王子製紙の元になった会社を立ち上げたのが渋沢栄一その人だった、という事も調べて初めて知りました。
- 十勝清水の開拓の歴史が気になる!
- 北海道と渋沢栄一って関係があったの?
- っていうか渋沢栄一ってどんな人?
- 幕末明治に何をしてたの?
気にはなるけど、難しい歴史の本は読みたくない!という人の参考になれば幸いです。
北海道に残る渋沢栄一の“跡”
十勝・清水
渋沢栄一は複数の出資者や従弟と共に、十勝・清水の熊牛に十勝開墾合資会社を設立しました。
明治31年の十勝には、依田勉三で有名な晩成社(明治16年~)や、十勝監獄(明治25年~)などが存在していました。
十勝の開拓に民間の人々や会社が開墾の為に続々と入植していた頃の事です。
ちなみに、十勝開墾合資会社の初代の農場長は町村金弥が勤めています。
渋沢栄一にゆかりのあるお寺や神社も残っており、由来を紹介する説明看板を読むだけでも勉強になって楽しいです。
大勝神社に行った際、渋沢栄一に関する観光マップも目にしました。
他にも、十勝開墾合資会社やその牧場に関係のある史跡も残っています。
清水町の図書館には、郷土資料館が併設されています。
図書館の方にお願いすると見られるタイプの資料館となっています。
十勝に関する歴史や開拓についてなど道具と共に展示解説されているので、見ているだけでも楽しかったです。
頻繁に来ていたり、自分で土地を開墾した!という事では無いですが、様子を見に来た事はありました。
明治41(1908)年の8月、半月程北海道に滞在して、札幌・函館・旭川・小樽・釧路・十勝などを見て回っていたそうです。
札幌・サッポロビール
開拓使が作った開拓使麦酒醸造所は民間に払い下げられた後、明治20(1887)年には札幌麦酒株式会社と名前を変えます。
この札幌麦酒株式会社に渋沢栄一が明治42年(1909)頃まで、経営に関わっていました。
博物館の中ではサッポロビールの歴史を学べるようになっています。
その中で渋沢栄一が登場する部分もあるので、じっくり読んでみるのも楽しいですよ。
小樽・銀行や倉庫など
旧第一銀行(今のみずほ銀行)は、渋沢栄一が自分で作った銀行です。
小樽では、その旧第一銀行小樽支店の建物や、澁澤と名前が残る倉庫などが見られます。
北のウォール街と呼ばれた小樽の歴史と絡めて勉強すると、とても楽しめそうですね。
数年前に小樽の博物館に行った時も、十勝鉄道に夢中でした。
調べ始めたらキリが無かった
十勝や札幌、小樽の他にも、北海道の各地にあった会社に渋沢栄一は関わっていました。
今のJRや王子製紙、北海道拓殖銀行も、渋沢栄一が会社の設立に関わったりしています。
こちらの渋沢栄一記念財団が運営しているサイトでじっくり詳しく紹介されています。
すごく勉強になるのでオススメです。
渋沢栄一ってどんな人?
幕末明治にどんな事をしていたのか、簡単にまとめてみました。
漫画で読めるタイプの伝記もあるので、文字を読みたくない!という人にオススメですよ。
縁あって徳川幕府に仕えた幕臣
天保11(1840)年に渋沢栄一は、商いもする農家の子供として生まれました。
渋沢栄一が20歳前半の頃の日本では、黒船がきた影響などで、
- 外国と仲良くしようとしている幕府も倒さなきゃ!
- 外国人を追い払え!尊王(天皇を敬い)攘夷(外国の敵を倒そう)だ!
という考えが強くなっていました。
外国人を襲おう!という計画まで仲間と立てていた渋沢栄一。
しかし、計画がおじゃんになり、さてこれからどうしよう?故郷にも帰れないし、という状態になります。
そんな時、以前から知り合いになっていた平岡という人に、だったらウチ(一橋家)で働かないか?とスカウトを受けたのだとか。
そして一橋家では、お金を管理する仕事や、自分たちのところで作った作物などを良い値で買い取ってくれる地方に売る事で、お金を増やす仕事を担当していたのだそうです。
徳川家の将軍が病気で死んでしまった後に、一橋慶喜が徳川家の第15代目将軍となる事になりました。
そのため、一橋慶喜から徳川慶喜になり、渋沢栄一も藩士から幕臣になりました。
幕府vs新政府軍な時には戦った?
慶応3(1867)年、慶喜の命を受けて、昭武(慶喜の異母弟)がパリで行われる万国博覧会に将軍の代わりに行く事になりました。
フランスで数年の留学も計画されており、渋沢栄一はそのお供としてフランスに行っていたのです。
フランスに行って10か月後くらいに『大政奉還しました』って話を聞いたのだとか。
そして、フランスから日本に帰って来たのが慶応4(1868)年の12月。
その頃にはもう、旧幕府軍vs新政府軍な戊辰戦争もほとんどケリがついていました。
北海道・函館での五稜郭の戦い(1869年)を最後に、戊辰戦争も終わり、時代は明治に変わっていきます。
新政府の役人になる
フランスから帰ってきた渋沢栄一は、しばらく慶喜のいる静岡で働いていました。
しかし、とにかく人が欲しい新政府に、君は優秀だから是非来て欲しい!と言われます。
新政府で国の財政や税金を集める仕事を任されると、通貨の価値を安定させたり、税金を徴収する方法を考えました。
お金の単位が、両から円、に変わったのもこの頃です。
日本資本主義・実業界の父へ
政治家を辞めた後、実業家・経営者として渋沢栄一は様々な銀行や会社の創設に携わっていきます。
今のみずほ銀行になる『第一国立銀行』や、王子製紙となる『抄紙会社』を設立、運営しました。
その他にも、500以上の企業や会社に関わっていたのだとか。
保険会社や電力会社、ガス会社、株式取引所、倉庫業にホテル業、石炭や銅山、農業林業水産業、福祉に教育に至るまで、今に残る様々な会社の創立に関わっていたそうです。
最後に
渋沢栄一と北海道との関わりについて、まとめてみました。
幕末時代について調べていると、色々な驚きや発見があり、とても楽しかったです。
まだまだ、幕末は知らない事だらけなので、これをきっかけにより深く勉強していきたいな、と思いました。
以上、北海道明治開拓期の歴史の中でも特に十勝の話が気になっている十勝民おかめでした。