馬は、戦争の頃には兵器・物言わぬ兵士、と呼ばれていました。
日清戦争~太平洋戦争の頃、馬は戦争に不可欠な存在でもあったのです。
- 戦争に出征した馬は何をしていたのか
- どうして馬が戦争に必要だったのか
- 兵士は馬の事をどう思っていたのか
- 馬の最期について
など、調べてみた事をまとめてみました。
馬が可愛い、馬が大好き!と思っている人にはショックな話になるかと思います。
なるべくヒドイ話は避け、表現はやわらかい物を選ぶようにしていますが、馬好きな人は回れ右してみなかったフリがオススメですよ。
戦争に出征する馬
戦争による馬の用途
1930年~0940年代半ばまで、馬は荷物や食料を運び、鉄砲や大砲も引く存在でした。
特に、大陸の険しい山道や道が無い場所では、武器などを運ぶのに馬が必要でした。
また、重機を引く輓馬など、目的に応じて戦地に続々と供給されたのです。
国をあげてより高い能力を持つ軍馬を目標として軍馬補充部なども作られました。
戦争が激化していくと、必要な馬の数が足りなくなり、農家などで買われていた作業用の馬も軍馬補充部にかきあつめられるようになっていきます。
戦争と馬に関する美談・武勲伝
日中戦争の頃には、
- 新聞に軍馬についての記事が掲載されたり、
- 国民学校の国語の教科書に軍用馬の物語
も載るようになっていきました。
全国から歌と曲を応募して、小関裕而や山田耕作などの作曲家や陸軍が審査員をして作られました。
歌や映画などを作り、国民が軍馬に親しみやすいキャンペーンをして、募金をお願いしたり馬の餌の献納を呼び掛けて資金と物資を集めました。
出征する馬と見送る農民
出征は名誉?
戦争が激しさを増し、足りなくなった分を補充するため、馬を持っている農民に馬を差し出す事を求められるようになっていきました。
家族で育てた馬、共に暮らしていた馬が軍馬になって国の役に立つのは、名誉な事だと考えなければならない時代でした。
しかし、同時に働き手であり、家族の一員であった馬を失う農家の気持ちは、とても複雑だったものでしょう。
もしくは、自分の家族が様々な事情で出兵できない事に申し訳なさを抱いていた家の場合は、家の馬が出征するとなると、感謝の気持ちを抱いたという話もあります。
家族の身代わりになって出征してくれる馬に対して、国の役に立てるという感謝と、手柄を立てる活躍を祈る想いがあったのかも知れません。
戦地に行って欲しくない本音
馬を走らせたり、物を引きずらせたりして、馬が軍用馬として使えるか判定する検査をする決まりになっていました。
その中で、足を引きずっている馬を不審に思った兵士が足の裏を見ると、釘が刺さっていました。
馬を連れて行かれると生活が困る農民がしたことだと思われました。
戦争に協力しようとしない人を、当時は日本に反する国賊、と考えていました。その為、その馬の持ち主は平手打ちなどの暴力による罰を受けたと言います。
馬への想い
家族同然だった馬を差し出せと軍に言われ、泣いて悲しんだ家族もいます。
しかし、抵抗する事もできず、せめて馬の武運を祈ろうとお守りをつくりたてがみにくくりつけてあげたり、馬にご馳走をだべさせてあげて出征を祝いました。
出征の時には日の丸を胴につけた馬もいたり、送り出される時は兵士同様、万歳三唱して見送られたのだそうです。
出征した馬の現実
それに対して、生まれつき軍馬に向かなかった民間の馬が悪い、訓練の必要性があると軍は言ったという。
農民の抵抗
徴発に逆らえば国賊
抵抗すると、戦争そのものの否定とされ、反軍事的、国賊、と非難され、暴力を振るわれたりしたそうです。
馬籍を誤魔化せば捕まる
そのため、どこの家に何歳の馬がいるか、など軍に知られている状態になっていたのです
何らかの事情で徴発令状を持ってこられても馬を差し出せない場合(売ってしまった、死んでしまった)などの時などの時には、
馬を扱う商人に似た外見と年頃の馬を探してきてもらってなんとか誤魔化した、という事もあったそうです。
軍用馬に向かない馬を育てる
育てた馬が軍用馬として連れていかれないように、馬の種を貰う時は軍の条件と反対の性質を持つものが好まれるようになったといいます。
軍用馬と兵士の関係
戦地で馬の世話をしたのは兵士
- 馬の餌となる草や、水などを用意する
- 病気やケガをした時には看病をする
など馬の世話をしていたのは兵士たちでした。
馬はお金を払って連れてきたものだったので、大事にしろ、と上官から言われていたのだといいます。
戦友であった馬と兵士
世話をして、過酷な環境で一緒に過ごしていく中で、兵士は馬に対して家族のような強い感情を抱くようになっていくのも、少なくなかったといいます。
戦場で死んでしまった馬に対して、馬の出自が分かっていれば、
「どこで戦死して、どんな最後だったか」などを手紙に書き、
遺品として馬のたてがみを同封して元の飼い主に送ってあげたりしました。
また、一緒にいた馬が自分より先に死んでしまった事を泣きながら悲しんだ兵士は、
「血のつながった兄弟を無くした気持ち」と手紙に書き、
馬のたてがみと墓碑を建てるためのお金を添えたといいます。
出征した馬の最期
日本に帰ってこられた馬は少ない
戦地に次々と送られた馬は、再び故郷に戻ることはほとんどありませんでした。
十勝・本別生まれの本別号は、中国大陸での戦線で活躍し、奇跡的に生きたまま日本に戻ってこられた馬です。
昭和9年に本別から出征した本別号は、日中戦争などで活躍した後、年齢を理由に除隊が許された。
除隊後は故郷への帰還ではなく、千葉県にあった御料牧場に放牧され、余生を過ごした。
本別号を飼育していた家族は、馬力をつけようと土そりを毎日1㎞ひかせて特訓していたという。
馬の最期
命を落とした馬は最期、戦地で捨てられ、野ざらしとなり置き去りにされました。
死因は、銃弾を受けた「銃創」・大砲による「砲創」・疲れによる過労・十分に食べられなかった事による飢えなどだったといいます。
過酷な行軍の中、疲労で死んでしまったり、敵からの攻撃を受けて死んでしまった馬の記録も残っています。
鞭で打たれ、拍車(馬に乗る人のくつのかかとについている突起物)でつつかれながら、息を切らして馬は武器を運んだ。
大変な思いをさせられ、それでも死んでしまうとそのまま道端に捨てられるのは、とても可哀想だった。
と記録している兵士もいました。
南太平洋や東南アジアなど、南に連れていかれる馬もいました。
馬には向かない熱帯雨林などでは十分に力を発揮できませんでした。また、敵からの攻撃ではなく、食べ物がなく命を落とした馬もいました。
馬がダメなら牛にする?
馬が欲しいのに、集まらない、という究極の状況に追い込まれた軍。
実は、馬がダメなら牛で代用できないものか?と考えた事もあったようです。
しかし、
- 牛は軍用馬の代わりにはならない
- 軍のご飯にはなった
という結果に終わったそうです。
最後に
十勝本別の道の駅でバロン西の先人カードを貰ってから、戦争と馬についての興味が出て調べた事をまとめてみました。
まだまだ勉強中なので、本当はもっと悲惨な話があったり、心に突き刺さるような馬と兵士の話もあるのかも?と思っています。
深く勉強したいと思うと同時に、戦争の犠牲になった方々や馬の冥福を祈るばかりです。