十勝・本別町の資料館で解説展示のあるバロン西。
オリンピックの馬術競技で、金メダルを取っている方なのだとか。
そして、太平洋戦争では激戦地となった硫黄島で戦死を遂げた軍人さんでもありました。
- バロン西ってどんな人なの?
- なんでバロン西って呼ばれてるの?
- 愛馬ウラヌスとの出会いは?
- 十勝本別とどんな関係があるの?
などについて、調べた事をまとめてみました。
西 竹一(にし たけいち)について
経歴
- 1902年 東京麻布で産まれる
- 1912年 10歳で西家を相続する
- 1917年 通っていた中学校を中退、広島陸軍幼年学校に入る
- 1920年 陸軍士官学校の騎兵科に進む
- 1924年 陸軍士官学校を卒業、騎兵少尉に
- 1927年 陸軍騎兵学校に入学、本格的な馬術訓練をする
- 1929年 陸軍騎兵学校卒業
- 1930年 イタリアでウラヌス号と出会う
- 1932年 ロサンゼルス五輪の馬術大障害飛越協議で優勝
- 1936年 ベルリン五輪に出場
- 1939年 3月から1940年8月まで軍馬補充部十勝支部に勤務
- 1944年 硫黄島に赴任
- 1945年 硫黄島で戦死
バロン西ってどんな人?
幼少期に兄2人は他界、父も10歳で亡くなってしまったので、10歳で家を相続し莫大な資産を受け継いでいます。
スマートな美男子で、当時としては175㎝という高身長だったそうです。
多趣味で、乗馬の他にカメラや射撃を嗜み、日本ではまだ珍しいタイプの外国産の車を乗り回していたのだとか。
何故バロン西って呼ぶの?
男爵を外国語で言うとバロン、になるのでバロン西、と呼ばれています。
ウラヌスと一緒に出場したオリンピックで、西は馬術競技で日本人では初めての金メダルを取りました。
その時、外国の人々が彼をバロン西、と呼んで人気になったのだとか。
愛馬・ウラヌス号って?
気性が激しく、元の持ち主が売りたがっている話を聞いたバロン西が自分のお金で買い取りました。
当時の日本の馬の価格は1頭100円の時代で、イタリアでも300円で最高級の馬が買えたといいます。
その中で約1,500円を払って買ったのがウラヌス号なんだとか。
ウラヌス号の見た目は栃栗毛(黒っぽい茶色の毛色をした馬)で、額には星がある、肩までの高さが181センチもある大きな馬でした。
競技馬として引退してからは、東京世田谷にある馬事公苑で余生を送る事になります。
軍人としてのバロン西
オリンピック出場選手である反面、軍人でもあった西は、騎兵隊に所属していました。
十勝本別にあった軍馬補充部十勝支部に転属した後、昭和18年には戦車隊に配属されました。
そして昭和20年、激戦地となった硫黄島で最期を迎えます。
以下からは特に、軍馬補充部十勝支部での事や『ウラヌス号のたてがみ』についてまとめています。
軍馬補充部十勝支部とバロン西
本別にバロン西、国民的英雄がくる!というので急ピッチで受け入れの準備をしたといいます。
西専用の宿舎の建設・乗馬練習場を特設したのだとか。
- 馬の生産者へ愛馬観念を持つように呼び掛ける
- 農閑期の馬の管理の重要性を語る
特に、ひづめの管理と栄養の大事さには注意をするように言っていたのだとか。
また、軍馬補充部十勝支部では、クマによる馬が襲われる被害もありました。
バロン西が勤務中、馬がクマに襲われた時には、自ら仕留めに行って敵をとったといいます。
討ち取ったクマを部下に背負わせて、写真を撮って家族に見せたというから驚きです。
釣りも趣味にしていたので、イトウを釣って楽しんでいたのだとか。
本別の街中では、部下と飲んで遊んでいた、という話もあります。
上司には贅沢するな!って怒られた事もあったのだとか。
10歳で莫大な資産を受け継いだ男爵ですもん。
きっと根幹から何かが違うんでしょうねきっと、と思わずにはいられません。
硫黄島での最期
そして、7月に硫黄島へ配属されます。
当時、アメリカ軍はサイパン島(硫黄島から少し南にある島)に上陸し、日本の敗色は濃厚になっていました。
そんな中で硫黄島守備隊に求められたのは、
一日でも長く抵抗して日本本土への攻撃を遅らせる
という事でした。
硫黄島は東京の小笠原諸島の近くにある島です。
落とされたら日本本土が攻撃される、と考えられていたのです。
硫黄島に向かう途中、西の乗った船はアメリカの潜水艦から攻撃を受けて、戦車と一緒に沈んでしまいました。
兵士たちは無事救助されましたが、戦車がなければ満足に戦えません。
戦車の補充をするため、西は一度東京に戻りました。
東京に戻って戦車の手配を済ませた西は、世田谷の馬事公苑にウラヌス号に会いに行きました。
おじいちゃん馬になっているウラヌス号と一緒に馬場を一周したり、交流を楽しんだといいます。
このウラヌスと再会した時、西はウラヌス号のたてがみを数本切り取って、自分の懐にしまっていました。
激しい戦いの中で、西も命を落とします。
戦死時の詳細は不明なものの、3月半ばに戦死日ではないかと考えられています。
ウソかホントか分からないお話、どころか作り話なんだとか。
亡くなったのも、自決か戦死かも定かでないと言われています。
ウラヌス号はバロン西が硫黄島の戦いで亡くなった一週間後、後を追うように病気で亡くなりました。
馬事公苑で切り取ったウラヌス号のたてがみは、肌身離さず持っていたそうです。
その後、1990年にアメリカによってウラヌスのたてがみが発見されました。
最後に
十勝・本別町の歴史民俗資料館では、バロン西に関する展示や軍馬補充部十勝支部についての展示を見る事ができます。
その中には、バロン西の遺品である、ウラヌスのたてがみも。
毎年8月は軍馬補充部十勝支部も被害を受けた、北海道空襲の一つである、本別空襲に関する特別展示を見る事もできるようになっています。
普段は中々触れる機会がない、北海道と太平洋戦争の歴史を知るのにオススメですよ。
以上、太平洋戦争について勉強中な十勝民・おかめでした。