北海道の歴史勉強が趣味、な十勝民・おかめです。
実は十勝に太平洋戦争に関する遺構があるってご存知ですか?
海岸線に点在している、コンクリートの建造物・トーチカです。
第二次世界大戦のなかで、日本がアメリカなどの連合軍と戦った戦いが太平洋戦争(大東亜戦争)と呼ばれています。
その太平洋戦争末期、アメリカ軍の本土上陸が考えられていました。
当時の師団長・鯉登行一もトーチカなどの視察をしたと言われています。
十勝の海岸線に現存している、
- 大樹町の旭浜トーチカ
- 豊頃町のトイトッキ浜トーチカ
- 広尾町の野塚防霧林トーチカ
を見てきた感想と、当時の時代背景を簡単にまとめてみました。
- 十勝と戦争の話が気になる
- 海岸にあるコンクリートのアレって何?
- ドライブがてら歴史を知りたい!
と思っている方の参考になれば幸いです。
大樹・旭浜トーチカ
大樹・旭浜トーチカ(林の中)
旭浜漁港の近くで、旭浜トーチカと、浜辺のトーチカ群を見られるようになっています。
2008年に周辺の工事の際、見つかったトーチカです。
- トーチカの上に登れる
- 側面の銃眼(機関銃を出す口)がはっきり見える
- 入り口の様子も分かる
ようになっていました。
2020年5月に行ったのですが、至る所に草が生えていてちょっと歩きにくかったです。
サンダルなどの靴で行くのはあまりオススメできないかと思います。
大樹・旭浜トーチカ(海岸沿い)
林の中のトーチカから、もう少し海岸に向かった先に点在しているトーチカを見られました。
広い海岸線沿いに、ぽつぽつとトーチカが建っています。
砂にかなり埋まっているものもあれば、多少出入口が見えるもの、
頭に草を被っているものなど、様々な姿を見る事ができました。
銃眼や出入り口から中を覗く事もできる状態でした。
怖い想像が頭の中に広がった瞬間です。
場所
林の中にあるトーチカと、浜辺に点在しているトーチカの2パターンを見る事ができます。
浜辺は砂状なので、履いている靴によっては大変な目に合います。
虫除けなどがあれば林の中も怖くないかと思います。
豊頃・トイトッキ浜トーチカ
豊頃・トイトッキ浜トーチカ
トイトッキ浜野生植物群落、豊北原生花園と同じエリアにありました。
このトーチカから少し歩けば、すぐに海岸線に出ます。
流木がたくさん流れ着いている砂浜でした。
目を引く赤い鳥居が建っています。
豊頃などの郷土資料館に情報はあるんでしょうか。
トーチカの出入口があるんじゃないだろか?
という部分には草がこんもりと茂っていて、銃眼だけがよく見える状態でした。
場所
トーチカ、という看板ではなく、トイトッキ浜野生植物群落、豊北原生花園という看板を大きな道路で見かけたと思います。
トーチカそのものに、車で近づける場所になっていました。
広尾・野塚防霧林トーチカ
広尾・野塚防霧林トーチカ
他のトーチカよりも色んな意味でドキドキする場所でした。
- トーチカ看板から先が林で見えない
- 足元がやけにふかふかする
- 鳥・虫の鳴き声がすごかった
- 草木の生い茂り方が凄すぎた
明るい時間帯に行って良かったです。
茶色の小さな橋を渡って、いくらか歩いて行くと解説看板付きのトーチカの姿が見えてきました。
トーチカの上には山菜も生えている状態です。
本当はこんな姿で埋もれるように存在していた物だったんだろうな、という見た目をしています。
頑張ってぐるっと一周してきましたが、始終何か出てくるんじゃないか?とドキドキが止まりませんでした。
見に行く時は、是非気をつけてどうぞ。
場所
広尾のシーサイドパークにある、広尾町海洋博物館がすぐ近くにあります。
海洋博物館にトーチカについての解説展示などはありませんでしたが、
- 魚の構造について
- 十勝の歴史
- 坂本直行氏の展示
などがあり、とても見応えがあるのでオススメです。
ちなみに、坂本直行氏は六花亭の包装紙の花柄を書いた人であり、坂本龍馬の親戚でもあります。
トーチカってそもそも何?
トーチカの意味と存在理由
- 戦争末期の1944年に作られた
- ロシア語で点・拠点の意味
- 防衛陣地とも言われるコンクリート製の建築物
- アメリカ軍の上陸に備え、主に太平洋海岸に作られた
- 戦後は占領軍による武装解除で壊されたトーチカも
網走・根室・釧路・十勝の海岸に、トーチカや防衛の為の建築物が多く作られました。
厚真町の海岸線にもトーチカがあるそうです。
トーチカの構造
- 機関銃や野砲類(大砲の一種)の銃口を銃眼から外に向けて
- 敵を攻撃できるような造り
になっています。
本当は土や草の下に隠れているものでしたが、現代では風などの力で姿がよく見える状態になっています。
- 材料はセメントや砂利、砂
- 深さ1mの四角い穴を掘り、コンクリートを流し込んで基礎を作る
- 基礎が固まったら、側面を作る。木の枠を組んでコンクリートを流す
- 最後に天井を作り、姿を隠す為に草などを植える
- 1つにつき制作日数は1週間程
十勝毎日新聞2003年6月27日には、トーチカの保存運動について紹介する記事が載っていたのだとか。
トーチカには鉄骨が入っていないので、その分耐久性は低くなっていると考えられています。
トーチカが作られたのは太平洋戦争末期
当時の日本はアメリカなどの連合軍に対して不利な状況にありました。
このままでは日本本土に上陸されてしまう!という危機感を抱いていたのです。
北海道でも上陸戦に備えるため、太平洋の海岸線沿いにトーチカが作られました。
上陸戦を想定した訓練なども行われましたが、実際に使われる事なく日本は終戦を迎えています。
とはいえ、1945年7月に北海道各所への空襲もあり、北海道が戦争被害を受けていない訳では無かったのです。
釧路市立博物館では、釧路の空襲被害などを知る事ができます。
旧陸軍第七師団が道東に駐在した戦争末期
トーチカが作られた戦争末期の道東の様子について、簡単にまとめてみました↓
上陸戦に備えて旧陸軍第七師団が道東へ
- 1943年5月・アッツ島玉砕
- 1944年4月頃・アメリカ軍上陸に備えて旧陸軍第七師団が道東へ移動
- 1944年12月頃まで・トーチカなど防衛強化の為の建築物を作る
- 1945年7月14、15日・北海道各所への空襲
- 1945年8月15日・日本の無条件降伏により終戦
1943年、北海道から北に存在するアメリカ領の島、アッツ島を占領していた日本軍が玉砕した事などをきっかけに、本土決戦の危機感が高まっていきました。
旧陸軍第七師団は、太平洋海岸の守りを固めるために主力を道東に展開。
東条英樹という軍の偉い人も帯広の状態を視察していました。
↓最近読んだ太平洋戦争を題材にした漫画では一番読みやすく&心に突き刺さりました。
旧陸軍第七師団長・鯉登行一も十勝帯広へ
鯉登行一中将は愛媛県の出身で、1941年に第七師団長に就任しました。
第七師団の一部はアリューシャン列島やミッドウェー島、ガダルカナル島などへの出動などもあった。
「北辺の守り」を率いる為、鯉登中将自身はそのまま北海道に駐在していた。
その後、十勝帯広には司令部が置かれ、師団長鯉登行一中将も帯広入りしています。
アメリカ軍上陸戦を想定した演習やトーチカの現地視察などをしていました。
兵士たちの士気の低下に悩んでいた、とも言われています。
想定していた北海道での戦いはないまま、終戦を迎える事になりました。
この鯉登中将の書が、旭川にある北鎮記念館に飾られています。
屯田兵の事や陸軍第七師団の事、戦争についてなどを詳しく知る事ができるのでオススメです。
最後に
十勝の海岸線に残る、太平洋戦争の遺構・トーチカについてまとめてみました。
一見するとコンクリートの塊に見えますが、その存在の理由を知ると、見る目が変わるのではないでしょうか。
上陸戦が無くて本当に良かった、と心の底から思います。
トーチカを見に行く時には、足元にはくれぐれも注意して下さいね。