北海道の歴史を語る上で欠かせないのが、開拓の歴史。
屯田兵や民間などの開拓者の他、監獄に収監されていた囚人たちも道を拓くなどの重労働をしていました。
北海道で一番最初に作られた樺戸監獄、映画やマンガなどにもたくさん登場する網走監獄。
硫黄山での過酷な労働が問題になった釧路集治監、炭鉱での労働に問題が多かった空知集治監もありました。
北海道・十勝といえば酪農や農業などが盛んな地方です。
屯田兵の入植は無く、晩成社をはじめとする開拓者たちが拓いた場所でもあります。
そして、十勝監獄も十勝帯広の基盤・発展にとても大きな影響を与えていたのです。
今回はそんな十勝監獄の歴史と、十勝帯広に与えた影響などについてまとめてみました。
- 北海道の歴史が気になっている
- 北海道の監獄(集治監)について興味がある
- 緑ヶ丘公園の石碑を見てから十勝監獄に興味が湧いた
- 百年記念館で十勝監獄の存在を知った
- 十勝監獄って名前だけ聞いた事がある
- 十勝帯広の歴史に興味がある
という方の参考になれば幸いです。
※単なる歴史好きな素人による勉強まとめです。
※時代によって十勝監獄の名称に変化がありますが、十勝監獄としています。
十勝監獄(帯広刑務所)の歴史
十勝監獄になるまで何度か名前が変わっています。
現代の帯広刑務所となるまでの名前の変化を、簡単に説明すると以下の通りです。
- 釧路分監帯広外役所(明治26年)
- 十勝分監(明治28年)
- 十勝監獄(明治36年)
- 十勝刑務所(大正11年)
- 帯広刑務所(昭和18年)
約130年前・帯広外役所の始まり
十勝・帯広に監獄が作られるより前に、北海道には既に4つの集治監(監獄の前身)がありました。
そして、
- 囚人が増えていく一方だった
- 十勝の開拓が遅れていた
事から十勝にも監獄を作ろう!という事になります。
- 北海道に監獄を作ろうとした明治13年
- 十勝に監獄作れるんじゃない?と空知集治監の渡辺惟精が視察した明治22年
- 十勝に作った方が良いって!と樺戸集治監の大井上輝前が視察&土地の選定をした明治25年
大井上輝前(おおいのうえ てるちか)が視察していた時、晩成社の依田勉三・渡辺勝達も立ち会っていました。
この時、監獄の位置を緑ヶ丘公園周辺にする事などを決めたと言います。
明治25年に釧路分監・帯広外役所としてスタートしたのは、今の柏葉高校や平和神社辺り。
仮監獄としてバラックを建てて、囚人達を収容していたのだとか。
そこから上士幌町・糠平の方に木材を切りに行って、今の緑ヶ丘公園に十勝分監(後の十勝監獄)を建設しました。
明治28年に囚人だけの力で出来上がりました。
ちなみに切り出された木材はトドマツだったと言われています。
今から約130年前、明治26年の事です。
始まった当初、囚人や看守たちはマラリヤにかかって苦労していたのだそうです。
また、冬になると寒く、暖房器具も満足に無かったので凍傷などにかかる囚人は、一定数存在していたと考えられています。
約120年前・十勝監獄になる
十勝監獄がそれまでに開墾した土地は、牛馬産組合や後の日甜、鉄道にするための土地として開放されていきました。
下帯広村(帯広市街地あたり)が周辺の村と合併し、帯広町となったのもこの頃です。
この頃、監獄医や衛生管理の努力の結果マラリヤに悩まされる事も無くなったのだそうです。
刑期を終えて出獄した囚人たちの保護・援助の為に『十勝自営会』が十勝監獄初代典獄・黒木鯤太郎などによって作られています。
また、キリスト教を伝道した事で有名なピアソン夫妻も明治39年頃には十勝監獄でキリスト教誨を行いました。
約100年前・十勝監獄で火災
夜間、十勝監獄の庁舎や倉庫などが全焼する火事が起きました。
丁度他の地域に監獄の長である典獄が出張していた為、留守番の看守たちが事態を収束させたのだそうです。
また、この頃には帯広の市街もとても栄えていたので、それ以上の発展を望む時、監獄用地は邪魔な存在という見方をされていました。
火事も起きた事で、アブナイものは要らない!という地元民の声で、徐々に住宅街などに監獄の土地は姿を変えていきました。
もし、この火事が起きなけば。もし、資料の焼失が無ければ。
今の緑ヶ丘周辺の姿や十勝監獄の歴史の遺され方も、十勝帯広の成り立ちを語る口調も、今とはまた少し違っていたのかも知れません。
約80年前・帯広刑務所へ名称変更
- 大正11年・制度が変わって十勝監獄の名前から十勝刑務所へ
- 昭和18年・名称の変更などを経て帯広刑務所になる
十勝監獄だった土地は、様子や若干場所がずれて、昭和初期には緑ヶ丘公園が作られました。
また、緑ヶ丘公園には昭和初期に飛行場もありました。その飛行場も囚人たちの手によって作られたものでした。
当時存在した地方新聞社・北海タイムスの連絡空路としても利用されていたのだそうです。
太平洋戦争末期、帯広には陸軍第七師団が駐在していました。
そして、緑ヶ丘にあった飛行場には陸軍第一師団・鏑部隊が駐在し、戦いに備えていました。
戦時中には陸軍の飛行場を作る為、オホーツク方面の女満別まで囚人が出張して土木工事もしていたのだとか。
この時の滑走路は、女満別空港の滑走路の元になっているとも言われています。
戦後も落ち着いた昭和40年代の事です。
囚人の脱走事件などを怖がる市民から、帯広刑務所の移転や縮小を求める声があがりました。
十勝帯広の開拓を影から支えた十勝監獄であった帯広刑務所は、昭和51年に今の場所、帯広市別府町に移転したのでした。
十勝監獄ができた理由
そもそも、どうして十勝には監獄が必要だったのでしょうか。
簡単にまとめるとこんな感じになります。
- 道内の集治監に収容されている受刑者の数が増えていたから
- 十勝の内陸部の開拓が遅れていたから
- ロシアの脅威にさらされる可能性が低く、屯田兵入植の必要が無いと考えられたから
北海道内の受刑者の数が増えていたから
北海道の集治監に収容されている囚人は、刑期が長い重罪人がほとんどでした。
- 刑期が長い囚人=出所者が少ない
- 犯罪者は増える=収監限度を超えてしまう
そのため、新しく監獄を増やしてそちらに収容しよう!という事になったのです。
帯広外役所として開かれた明治26年頃、囚人たちは音更の山から切り出した木材で監獄を立てたと言われています。
十勝の内陸部の開拓が遅れていたから
マルセイバターサンドや、ひとつ鍋などのお菓子のある意味モデルとなっている晩成社。
しかし、入植して頑張っていたものの、開拓は思ったように進んでいませんでした。
- 夢を見て北海道にやってきたが実際は辛くてうまくいかなくて、心が折れて帰る労働者も多かった
- 作物や肉ができても、買ってくれる人たちのいる場所(函館や札幌など)までが遠くて輸送コストがかかりまくった
- そもそも生活に必要なモノを買うのも送料が高くて厳しかった
- 逃げられない労働力がたくさんいて、その上賃金は安上がり
- 作物や肉を作ったらご飯として食べて自給自足の生活が可能→売ってお金を稼ぐ必要が無かった
民間の入植だけに頼っていられないという事で、北海道庁は十勝監獄を作ったという事ですね。
十勝に屯田兵は必要ないと考えられたから
北海道の歴史を語るのに欠かせない、屯田兵。
土地を開拓しては農地を広げて、今の北海道の基盤を作った兵隊さんたちです。
屯田兵は、ロシアの脅威から日本を守るための兵力でもあります。
- ロシアの干渉を受けにくいと判断された土地に置く必要は無かった
- 屯田兵は特に開拓を進めたい場所に置かれた
十勝監獄が作ったモノ・コト・した事
原野を開墾した
明治時代に十勝監獄が所有していた土地は、とても広い土地でした。
- 今の帯広駅南側
- 競馬場
- 帯広の自衛隊駐屯地
- 緑ヶ丘公園
- 大空団地や柏林台団地
などがすっぽり入ってしまいますね。
元々は原野の広がっていた場所を開墾したのが十勝監獄や、他の監獄に収監されていた囚人たちだと言われています。
そして、この開墾した土地は次第に民間や行政の土地として使われるようになり、だんだん監獄の土地は小さくなっていきました。
- 大正の頃には、今のイオン帯広近く(鉄南地区など)を譲り、
- 昭和初期には緑ヶ丘公園と帯広駅の間に持っていた土地を解放
しています。
昭和初期には監獄が建っていた、今の緑ヶ丘公園周辺が監獄の土地として残されている状態でした。
人口を増やした
当時の帯広周辺の人口は800人程度
そこに約1,200人の囚人+監獄の職員やその家族たち約500人
=いきなり2,500人の町へ!
そして、看守やその家族たちを相手に商売をする人も増え、更に人が増えて行くきっかけになりました。
道を作った
そのため、監獄道路という名前で呼ばれていた事もあったのだとか。
十勝に監獄が作られるちょっと前の明治24年(1891年)の事です。
工事の辛さより、囚人や看守はブヨや蚊に悩まされていたそうです。中央工事に残るような悲惨な話、壮絶な逃走劇などは無かったとも言われています。
帯広から海へと続く道ができた事で、輸送コストも安上がりになり、人の往来も増えるようになりました。
学校やお店などを建てた
- 十勝の内陸に作られたはじめての小学校・帯広尋常小学校(帯広小学校)
- かつて池田町にあった青山小学校の前身・下利別尋常小学校
また、裁判所や十勝公会堂、お寺や商店などの建物、線路や橋なども明治時代には十勝監獄の囚人たちによって作られていました。
上士幌町にある糠平の山から、木材を切り出して建物を作る材料にしていました。
この木材を切り出して運搬する為に、糠平までの道を作る事も囚人たちが行っていたのです。
ちなみに、十勝監獄の囚人が建てた帯広小学校には看守の子供や監獄医の子供などが通ったそうです。
日用品も作った
囚人たちは道を作っただけではありません。様々な道具も監獄の中で作っていました。
監獄で作られた日用品や農機具、建具などは十勝にやってきた移住者の暮らしを支えていました。
レンガを作る他、たらいや封筒などの日用品、箪笥などの家具、下駄や傘など身につけるものや、農機具までありとあらゆる様々な物を作っていました。
- そもそも材料が現地調達=輸送コスト無し
- 人件費が通常の15%程度で済む
通常で買うと輸送コストなどがかかってとても高い品物が、安く買えるようになったのですね。
監獄製品を売る商人・お店も出来た
監獄御用商人・林長次郎と十勝石
明治31年(1898)頃に伊藤英太郎という人が「北大商会」というお店を開きました。
そこで監獄製の家具や障子など様々な物を売っていたそうです。
その後、義理の弟にあたる林長次郎がそのお店を引き継ぎました。
長次郎は十勝石をアイヌの人から仕入れ、監獄で置物などに加工してもらって売る、という事も行っていました。
山下家具店
今の帯広図書館近くに建っているヤマシタ家具も、元々は帯広大通りにあったお店だったそうです。
初代の山下豊松という方が、大正3年に監獄の家具を扱うお店として山下家具を始めました。
そして、山下家具店に卸す家具を作る十勝監獄内の作業場所は、山下工場、とも呼ばれていたのだそうです。
帯広の病院は『監獄医』から
監獄には、『監獄医』という監獄の囚人たちを診察するお医者さんがいました。
そして、帯広に一番最初にできた病院は、監獄医だったお医者さんが始めたものだったのです。
黒沢病院の初代の方は、監獄に務める調剤師の息子さんだったそうです。
トラブルもあった
明治40年頃に収監されていた囚人・約1,000人の約90%は、殺人・放火・強盗という罪状で長期刑を受けていたそうです。
脱獄者は近隣の民家に押し入って衣服や食料を奪ったり、近隣住民とのトラブルも起こっていたと言われています。
また、脱獄者を捕まえる為に追いかけた看守が返り討ちに合う、という事件もありました。
もっと監獄の話を知りたい!という時にはコチラ↓の話をどうぞ。
最後に
十勝監獄の歴史と十勝・帯広にもたらしたものについて、とても簡単にざっくりとまとめてみました。
十勝監獄の跡について体感するなら、緑ヶ丘公園に行って、百年記念館を見て来るなどがオススメです。
以上、北海道の歴史の中でも明治開拓期に関する歴史が気になっている十勝民・おかめでした。
参考資料など
参考文献
『北海道の歴史がわかる本』桑原真人・川上淳
『十勝自営会創立100周年 十勝の監獄』磯谷悠三
『目で見る帯広・十勝の100年』郷土出版社
『十勝を拓いた人々』嶺野侑
『帯広刑務所-北の大地に百年その歩み-』帯広刑務所
『帯広刑務所小史』帯広刑務所
『帯広市古建調査書 十勝監獄石油庫』社団法人北海道建築士会十勝支部帯広分会・帯広市教育委員会
『史料 北海道監獄の歴史』網走監獄保存財団刊・重松一義
『開道百年記念 十勝風土記ふるさと百年 古きを訪ねてのれん訪問』十勝毎日新聞社 編
『帯広百年記念館紀要 第2号』 帯広百年記念館
『緑丘史』『十勝の歴史』
参考施設
『帯広百年記念館』帯広市
『網走監獄博物館』網走市
『月形樺戸博物館』月形町
『関寛斎資料館』陸別町