帯広と言えば豚丼!ですよね。
ぱんちょうの創業者さんが豚丼を作った、と言われています。
十勝では明治初期に晩成社が豚を育て始め、大正時代には一般的に食べられるようになっていました。
また、豚丼が全国区になったのは狂牛病事件がきっかけとも言われています。
十勝と豚と豚丼の歴史について、雑学も交えてまとめてみました。
十勝と豚の歴史雑学
十勝で豚を育て始めたのは晩成社?
十勝で豚を育て始めたのは、晩成社が最初と考えられています。
晩成社は1884(明治17)年に豚の飼育を始め、1890(明治23)年には100頭以上に増やす事に成功しています。
豚は餌も残飯で済んで育てやすく、開拓が進んでいない十勝でも飼育する事ができました。
ちなみに、勉三は豚を加工して売る事でお金を稼ごうと考えていました。
しかし。
- 豚を食べる文化がまだ定着していなかった
- 函館や札幌などの都市まで運ぶお金がかかった
ことで失敗に終わりました。
『豚とひとつ鍋』は関係ない?
十勝を語る上で外せない、依田勉三という人がいます。
イナゴに負けず土地に負けず、十勝を開拓しようとした、ガッツのある人です。
>>依田勉三って誰?
この依田勉三は、『開拓のはじめは豚とひとつ鍋』という言葉を残した人でもあります。
十勝の老舗菓子店・六花亭の銘菓にも『ひとつ鍋』という最中菓子があるくらい、有名な言葉です。
この言葉にかけて、豚とひとつ鍋があればご飯が作れる=豚丼の元になった、という話を聞いた事がありました。
この言葉の意味は諸説ありますが、実際には『飼っている豚と自分達のご飯が一緒だとお酒の席でふざけて詠んだ』という事のようです。
ブタと鍋一つあれば体力の元になるご飯が作れらぁ!
という熱い根性の意味合いとは、またちょっと違っていたんですね。
養豚業が更に盛んになった大正時代
晩成社が開拓を始めた明治時代には、豚食はまだ広まっていませんでした。
明治末期には豚の数も増え、大正後半には一般家庭でも豚肉がよく食べられるようになりました。
昭和初期には、食堂などのお店でも豚肉を使った料理が提供されています。
北海道民は牛より豚を食べる
ちなみに、北海道民はあまり牛肉を食べる文化がありません。
すき焼きの肉も肉じゃがの肉も豚肉です。
- 牛や馬は重要な労働力だから
- 牛や馬と仕事をしていたら情が移ったから
- 牛を育てる技術や知識が広く知られてなかったから
- 豚の方が簡単に育てられるから
- 豚肉は保存もしやすくて冬の保存食にできたから
などなどの理由で、北海道民は牛より豚を食べるようになりました。
ちなみに、帯広市民の給食の思い出は肉じゃがです。
十勝と豚丼の歴史雑学
豚丼は『ぱんちょう』でうまれた?
1933(昭和8年)の事です。
『ぱんちょう』の創業者・阿部秀司氏が、豚肉を使って新しいメニューを作ろうと考えました。
そこで参考にしたのが鰻丼。
滅多に食べられない鰻の代わりに豚肉を使って、馴染みのある甘辛い味付けにするとどうだろう?と思い付いたのです。
実際に、作ってみると美味しくて、食べやすい!という事で、徐々に家庭にも豚丼が浸透していくようになったと言われています。
つまり、十勝豚丼の発祥を作った元祖のお店こそが『ぱんちょう』だと言われているんですね。
豚丼が全国区になったきっかけの事件
今では全国的に有名な豚丼ですが、実はある事件をきっかけに広まりました。
アメリカで牛が狂牛病にかかる、という事がおきました。
狂牛病にかかった牛の肉を食べると、脳や神経系に影響を与えるという事で、アメリカ産の牛肉を輸入禁止にしたのです。
安く牛肉を確保できない、という事で代わりに豚が使われるようになりました。
- 吉野屋では十勝帯広と同じく豚丼(ぶたどん)
- すき屋では字が同じでも読み方が違う豚丼(とんどん)
など、牛丼各店で豚を使ったメニューが提供されました。
この時、十勝帯広の豚丼も注目が集まって、認知度が全国区になったと考えられています。
最後に
十勝と豚と豚丼の歴史を簡単にまとめてみました。
十勝民は豚丼を家で作って食べる事が多く、私もアラサーになって初めてぱんちょうで豚丼を食べました。
もっと早くから食べておけば良かったです。
以上、家で豚丼を作る時にはソラチの豚丼を愛用している十勝民・おかめでした。
最近では、ぱんちょうやとん田以外にも「ぶたいち」の豚丼も大人気!
おうちで本格的な味を楽しむのも自分へのご褒美にもオススメです。