十勝・帯広が誕生の場所である六花亭&柳月。
どちらも北海道では人気が高い老舗お菓子屋さんですよね。
という話で色々調べてみると、六花亭も柳月も、戦後すぐはアイスを売るところから始まったという事を知りました。
- あの有名なお菓子はどうやって生まれたんだろう?
- 六花亭や柳月はどんな歴史を持っているんだろう?
と、気になったので調べてみました。
六花亭&柳月の創業者や歴史について、簡単に分かりやすくまとめていきたいと思います。
六花亭の歴史
- 1916(大正5)年に現在の函館で誕生
- 1933(昭和8)年に札幌千秋庵菓子店に入店し、
- 1937(昭和12)年に帯広千秋庵の経営を引き継ぎました。
札幌千秋庵も帯広千秋庵も親族が経営していた会社だった様ですね。
1977(昭和52)年に六花亭製菓株式会社に名前を変更、
2022(令和4)年からは株式会社六花亭の名前になっています。
帯広千秋庵
帯広千秋庵は創業者の母方のおじ(母親の弟)が経営者として出したお店で、
同じく親族が経営していた札幌の千秋庵で4年修行した後、帯広千秋庵に入る事になりました。
帯広千秋庵を継いだ時には帯広には明治からの老舗菓子店が多かった事もあってなかなか売れず、社長や医者のところへ注文は無いか聞きにいったり、
冠婚葬祭に使うお菓子の注文をとる為に、帯広神社などに出向いていたそうです。
デコレーションケーキにバタークリームを使うなど、新しい事にも挑戦していましたが
昭和18年には召集令状で中国へ渡り、3年後に終戦と共に帰国。
戦後は夏に蜂蜜と卵と牛乳を使ってアイスクリームを作り、
秋にはかぼちゃのまんじゅうを作るなど、季節に合わせた商品を売る事から始めていたのだとか。
銘菓・ひとつ鍋で有名に
昭和26年に創業者が親族の家を訪れていた際、晩成社の本に書いてある
「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」
の句が頭から離れず、そこから着想を得てモナカ菓子・ひとつ鍋を作ったのだとか。
1952(昭和27)年に帯広の開基70年・市制20年を記念した式典が行われる事になりました。
この記念品に選ばれたのが「ひとつ鍋」でした。
式典で配られると評判を呼び、ひとつ鍋は帯広千秋庵始まってのヒット商品に。
当時の帯広の中心地区ではお菓子屋さんが400店舗はあったそうですが、その中で一躍帯広千秋庵は有名になりました。
日本で初めてホワイトチョコレートを販売
1967(昭和42)年にヨーロッパやアメリカに行き、これからチョコレートの新しい時代が来ると感じてホワイトチョコレートの作り方を勉強して帰国。
1968(昭和43)年から日本初のホワイトチョコレートの販売を開始します。
1972(昭和47)年に北海道旅行が流行り出すと、六花亭のホワイトチョコレートが爆発的に売れ始めました。
人気になった事で、類似品も販売されるようになり、類似品を買った客から「味が違う」などのクレームが入るように。
帯広千秋庵という名前でお菓子を売れるのは十勝地方のみとなっていたので、他の空港などで類似品が販売されていたそうです。
十勝地方だけではなく、北海道中で販売するために帯広千秋庵ののれんを返し、新しい会社になる必要がありました。
六花亭の誕生とマルセイバターサンド
1977(昭和52)年、帯広千秋庵から六花亭へと名前が変わりました。東大寺管長の清水公照師によって名付けられたのだそうです。
社名変更記念でお菓子を作ろうとなった時に十勝の開拓の先駆けである晩成社にちなみ、マルセイバターサンドが作られました。
当時、バタークリームサンドがブームだった事もあり、参考にしたとも言われています。
六花亭の節目節目で、晩成社なお菓子が生まれていたんですね。
包装が変わった理由
2013(平成25)年にマルセイバターサンドの包装が、くるっと包まれてるタイプから、袋詰めに変わりました。
と思っていましたが、くるっと包んでいるタイプだと本州に持ち帰られた際、包装の中に虫が入ってしまう事があったそうです。
その為、六花亭は袋詰めタイプにして、虫が入り込まないパッケージに変更したのだとか。
結果として、ふわっとサンドされた状態でパッケージできる事で、食感が良くなりより美味しくなったという良いことも。
マルセイバターサンドの派生?商品
マルセイバターサンドのビスケットの部分だけだとか、マルセイバターキャラメル、カステラケーキのようなバターケーキに、なんだったらバターそのものも売られています。
マスキングテープまで出てきたのには驚きました。
そもそも晩成社のバターって今でも食べられるの?って話ですが、詳しくはコチラをどうぞ↓
柳月の歴史
柳月の創業者は田村英也という人で、1919(大正8)年に現在の紋別市で誕生しています。
15歳の頃に帯広でお菓子屋を営んでいた兄の元へ行き、夜間学校に通いながら、昼は菓子作りなど店を手伝っていたのだとか。
1940(昭和15)年には召集令状で旭川へ行きますが、2年後に満期除隊。
その後、満州に渡ったものの2年後に終戦を迎え、なんとか無事に帰国。
帰国後は実家でビートを煮込んで作る糖蜜づくりを始めました。砂糖の代用品として甘い物を作るのに需要があったのです。
糖蜜を作って売ってお店を出す資金を稼いでいたそうです。
アイスキャンディーの販売から始まった柳月
1946(昭和21)年に旭川駅でアイスキャンディー売りと知り合った事がきっかけで、帯広でアイスキャンディーを売る事を決めました。
1947(昭和22)年には、柳月として創業しますが、当時でも帯広は菓子屋が70軒を越える激戦区。
ビートや小豆の産地だったことで、戦前から菓子屋が多かったのだとか。
洋菓子を作る事を意識
帯広で生き残る為には和菓子では難しいという事で、洋菓子の販売を積極的に行います。
1951(昭和26)年には東京の帝国ホテルのデザート担当だった人を教師に呼んで、職人達が技術を学んだそうです。同じ年にはクリスマスケーキの販売も行っています。
1961(昭和36)年には、日本で初めてひなまつりのケーキも販売しています。
最初の看板商品・十勝石
1954(昭和29)年、柳月に最初の看板商品・十勝石が生まれました。
現在では販売されていませんが、名前の通り十勝石のようにツヤツヤした羊羹に砂糖がかかった商品だったのだとか。
幸福駅ブームに乗る
1973(昭和48)年に幸福駅ブームがくると、翌年には幸福行きを発売し、ヒットを掴みました。
現在は販売されていませんが、道産バターと蜂蜜の生地にプラム・レーズン・ナッツを散らしたフルーツケーキで、箱には愛国-幸福駅間の切符を添えられていたそうです。
銘菓・三方六は失敗から生まれた?
昭和30年代後半から、柳月ではバウムクーヘンの製造・販売が本格的に始められていました。
最初は本場ドイツのレシピを参考にしていたものの、日本人が好むしっとり&くちどけが良いバウムクーヘン作りを目指して開発を進めていました。
1965(昭和40)年にようやく理想のしっとりしたバウムクーヘンが誕生し、ソフトバウムクーヘンとしては世界で初めて作られたとも言われています。
そして、バウムクーヘンの失敗作をみた創業者が、縦に切り分けると薪の形になる事に気づきました。
開拓時代の北海道では、三方を六寸に切られた薪が暖を取るなど生活に必要な存在でした。
その薪のように切って売り出してみては?と考えた事で現在の三方六が誕生したのだとか。
1988(昭和63)年にはモンドセレクションの最高金賞を獲得し、現在ではチョコやメープルなど季節限定の味も販売されています。
今は10切れにカットされていますが、私が小さいころはカットされてませんでした。
そこで、木を切る為の幅が広いのこぎり型のカットナイフが付いていました。
今でもお願いすると貰えるそうです。
最後に
十勝の老舗お菓子屋さんと言えば、な六花亭&柳月の歴史を有名なお菓子の誕生と絡めてまとめてみました。
なつぞらで登場した雪月のモデルは十勝のお菓子屋さんを複数、参考にしていると言われています。
戦前から六花亭&柳月の創業者以外にもお菓子屋さんが軒を連ねていた激戦区だったそうなので、他にどんなお菓子屋さんがあったのか、気になりますね。
以上、歴史好きな十勝民・おかめでした。
参考書籍など
連続テレビ小説 なつぞら
なつぞら なつが食べてた おいしいレシピ 扶桑社
十勝の人 十勝毎日新聞社
トップの決断 北の経営者たち 北海道新聞社
お菓子の街をつくった男 文渓堂
創業70周年記念誌 柳月70年 ゆめ満ちる菓子のちから 柳月
など