明治期の北海道に開拓移住!となると、実際にはどんな流れだったのでしょうか。
移住する土地を決めたり、お金や人はどうやって集めて、北海道に到着してから移住先までの移動方法などを2つの団体で簡単に比べてみました。
- 静岡から十勝へ移住した晩成社
- 宮城から胆振・石狩へ移住した伊達兄弟
について、見ていきたいと思います。
民間企業の晩成社に対して、伊達兄弟は元仙台藩士としてそれぞれ集団移住しています。
晩成社の移住の流れ
晩成社って何?
- 明治16年頃に現在の十勝・帯広に入植
- 静岡の伊豆で結成された企業団体
晩成社の副社長、依田勉三が農民達を引き連れて移住しました。
六花亭の銘菓・マルセイバターサンドのパッケージに使われている“○に成”は、この晩成社のロゴです。
入植先はどこでも許可された訳じゃない
明治15年頃、視察で札幌に行き、北海道へ開拓移住する際の適地を役所の人達に相談しています。
十勝の開拓計画は今後10数年後になるから、石狩方面がおすすめと言われてしまいました。
札幌近郊の苗穂を勧められたものの、広い土地が良い、十勝が良いと主張して辞退します。
他の人にも相談したものの、「用意している軍資金では、十勝の開拓は厳しいから諦めたら?」と再度諦めるように言われています。
と主張する勉三に、役所の人はどう考えてもその計画は無理だよって事で十勝での開拓は許可を出していませんでした。
結果的に十勝へ無願開拓
十勝開拓の許可が下りなかったものの、勉三と晩成社の幹部・鈴木銃太郎は実際に十勝入りして視察しています。
そして、この土地が良い!と下帯広村(現在の帯広)に移住する事に決めました。
その当時、50人前後は住んでいたそうで、開拓の先輩にあたる人たちも住んでいたのでアドバイスを受けながら土地を決めました。
再度、土地の貸し付け申請書を出しました。結局、申請書の許可は下りませんでしたが、晩成社は現在の帯広に開拓移住する事に決めました。
無願開拓の形をとる事になったのです。
ちなみにその後、開拓が進んだ事を認められ、正式に土地をゲットする事はできました。
無願開拓だから補助金も出ない
当時、北海道へ開拓移住するとなると、正式な手続きで許可が下りると様々な補助を受ける事ができました。
しかし、晩成社の開拓先は無許可のままです。
明治16年に晩成社の人々は北海道を目指して出発しましたが、渡航補助願書を出して補助金を申請→申請が認めらず、自腹で旅費を用意しています。
これも後々、晩成社の借金になったと言われています。
人・お金の集め方
十勝へ移住して農業をして良い暮らしを手に入れるチャンス!などと伊豆の農民に声を掛けて回りました。
当時の北海道は熊が出るとか冬を過ごせないとか、ネガティブなイメージが強かったので思ったように人は集まりませんでした。
依田勉三や鈴木銃太郎の家族も、一家総出で移住!はできず息子や母を伊豆に残しています。
晩成社は伊豆の依田家が作った民間企業です。
お金は簡単に言うと、出資者や依田家内から集められました。
開拓でお金を稼いで、利益を得たら還元する予定になっていました。
陸路組・船組で分かれ十勝入り
横浜港から函館港についた晩成社の集団は、明治16年4月16日に海路と陸路に分かれて帯広を目指した。
結論から言うと、どっちも大変な目に合っています。
明治16年の頃、十勝の海の玄関口・大津から帯広までは3日かかります。
死を覚悟した海路組
4月18日、晩成社幹部・渡辺勝を含む15人は函館から船に乗り、十勝の大津を目指しました。
しかし、襟裳岬の周辺を通過する時に波が高く、船が岸や陸に打ち上げられそうになります。
襟裳岬を通過できたものの、風が強く船にもダメージが出て、船の中に水まで入ってきました。
乗っている人達は死を覚悟するほどだったといいます。
大津の手前、広尾の沿岸にあたる猿留で船を降りて、荷物は船で大津に運ぶ事にして後は歩いて大津を目指す事になりました。
4月27日に大樹の湧洞にあった、佐藤嘉兵衛が管理する駅逓で食事をし、午後3時には大津に到着する事ができました。
十勝川を丸木船に乗って目的地、下帯広に海路組が到着したのは5月14日の事でした。
春なのに雪に驚く陸路組
4月16日、依田勉三含む12人は函館から歩いて十勝を目指しました。
各自行李などで荷物を背負って、森から室蘭までは船にも乗っています。
所々で宿泊を繰り返し、日高の様似に着いたのは4月30日。
5月5日には雪が降る事に驚いています。茂寄(現・広尾町の一部)の駅逓についた後は、十勝川を丸木船で渡って下帯広を目指す組と、下帯広まで歩いていく組に分かれています。
内陸を歩いた組は、アイヌの人に道案内をしてもらったり、雪が降り積もっている時には小屋を借りて休んだといいます。
陸路組も5月14日にはほとんど全員が下帯広に到着しています。
その後の晩成社があった大変な目や、その後の話はこちらをどうぞ↓
伊達兄弟の移住の流れ
伊達兄弟について
仙台藩の分領、岩出山領主の伊達邦直(兄)と亘理領主の伊達邦成(弟)の事です。
- 邦直(兄)→明治3年に空知聚富入り、後に石狩当別を開拓
- 邦成(弟)→明治3年に胆振伊達を開拓
戊辰戦争で旧幕府側についていた仙台藩は、幕府の敗北で石高が減らされました。
その為、移住開拓が進められていた北海道へ皆で移住する事を明治2年頃から考え始めました。
特に邦成の家老・田村顕允は開拓執事として新政府に「ロシアへの警備をしながら、自費で移住する」という事で北海道への開拓移住を相談していました。
下見や視察、札幌の役人に丁度良い土地を聞いたりして、土地を選びました。
役人から開拓の許可が下り、本格的な移住準備に入っていきます。明治初期の開拓移住は、開拓使の役人との交渉が重要でした。
邦直が入植した聚富の土地が開拓に困難だと相談した際には、当別の土地が空いてると役人がこっそり教えてくれたので場所を変えました。
入植した時期や移住の状況などが似通っているので、兄弟でまとめています。
人の集め方
移住方針が固まった後、家臣の中から移住者を募りました。
夫婦や一家は揃って移住する事と決められていました。
家族揃って、というのは単身赴任で行って、開拓が進んでから家族を呼び寄せる方法を取ると、開拓の辛さ・孤独に心が折れてしまうからという考えがありました。
家族みんなで行ってしまえば、頑張るしかない!という事で家族単位での移住が求められていたのです。
領主だった邦成や邦直一家も家族で移住したので、家臣たちの心も決まったのでしょう。
また、木こり・桶屋・鍛冶屋・猟師といったエキスパートも移住者として含まれていました。
お金やご飯の事
伊達兄弟が北海道移住をした頃、まだ行政による補助制度は整っていませんでした。
その為、自分達で旅費などのお金を用意する必要がありました。
城内の建物、山の一部、家宝や家具・武具など大事な物も売って資金を用意しています。
本州から船で北海道を目指す中で船が沈んでしまい、荷物が無くなってしまったので食器の代わりに貝殻を利用したりもしていました。
武士の着物だった、紋付や陣羽織も野良着にして農業に勤しみ、アイヌ民族から衣服の作り方を教わっていたそうです。
また、移住先で暮らしが落ち着くまで、工事作業の仕事をしてお金を稼いだりもしています。
後にお金の補助が出される事もありました。
移住する際、たくさんのお米も運んだものの、作物が思うように実らなかったりして、すぐに食料に困るようになりました。
そこで、フキや木の実、草の根などアイヌ民族に山菜の生えている所を教わってなんとかしのぎました。
あまりにもフキばかり食べるので、お尻の穴までフキになる、とアイヌの人から歌われた程だったのだそう。
移住先までの移動
邦成
明治3年4月6日に北海道・室蘭に船で到着。
まだ積雪があったため、雪の上に筵を敷いてご飯を食べたりしています。
4月7日には元気な人は徒歩・老人や女子供はアイヌの人に背負ってもらい、現在の伊達市有珠町に入りました。
有珠の会所では漁場持ちの和賀屋から、白米と有珠湾で獲れたアサリの味噌汁などを振舞われました。
4月8日からは伊達紋別で仮小屋作りなどを始めています。
邦成は開拓日誌として、訪問者や日々の事、有珠善光寺との事やアイヌの人々との関わりなどを記録しています。
伊達邦直
明治4年3月24日頃に室蘭に船で到着。先に伊達入りしていた邦成に迎えられます。
幌別→勇払→千歳の内陸を進み、老人や幼い子供は川舟で石狩へ向かいました。
邦直たちは歩いて札幌に行き、開拓判官・岩村通俊に挨拶した後、4月6日に聚富入りしました。
農作業を始めてみると、日本海の潮風が吹く砂地で海風の影響が強く、作物の芽も吹き飛ばしてしまうので農耕するには向かない土地でした。
視察に来た東久世通禧に土地の変更をお願いし、明治5年に石狩当別への移住を許されました。
移住の成功例とされている
移住当初は丸太などで作った掘っ立て小屋に住んで、不慣れな斧やマサカリなどを使って木を切ったり、鍬や鋤で地道に開墾していました。
最初は上手く実らなかった作物もきちんと育つようになり、西洋の農業方式や農具も積極的に取り入れました。
細かな農業の計画書を役所に提出したり、様々な産業の可能性をまとめていたりもします。
生活の事やアイヌ民族との関わり方、争いの際の決まり事も村の規則として決められていました。
屯田兵村に指導に出向いたり、作物や村の状態が良い事で賞状を貰ったりもしています。
晩成社の依田勉三も、下見の視察の中で伊達兄弟の作った村を見学しています。
伊達兄弟も依田勉三も、北海道神宮の敷地内にある開拓神社に御祭神として祀られています。
最後に
晩成社(民間企業)と伊達家(士族集団)について、ざっくりまとめてみました。
一口に移住、と言っても移住する経緯や北海道に着くまでの流れにちょっとした違いがあるという事が分かって貰えたのではないでしょうか。
伊達家については開拓の模範村として新しく移住する人達が参考に見に行く、という事も。
依田勉三も見学に行っていたそうです。
以上、歴史好きの十勝民・おかめでした。