北海道で船を使った商売をしたり、ゴローニン事件の交渉人としても有名な高田屋嘉兵衛。
- 北海道開拓神社にも開拓功労者として祀られています。高田屋嘉兵衛ってどんな人?
- ゴローニン事件ってなに?
など、北海道と高田屋嘉兵衛の関係についてとても簡単にまとめてみました。
高田屋嘉兵衛について
高田屋嘉兵衛と北海道
1769の生まれで、20代半ばの頃に海運業者の下働きを始めました。その後独立して、高田屋を名乗り、船で商売の仕事をしていました。
30歳頃、1798年には函館に自分の店も出しています。その翌年には択捉島の海路を調べる船頭を、幕府が募集していたところに応募、お雇いの船頭になりました。
1800年頃には、幕府の指示で北方調査をしていた2歳年下の近藤重蔵から、国後島と択捉島の間の航路を調査するように頼まれて同行したりしています。
その後は根室場所を開いたり、函館の港に船の作業場を作ったりと蝦夷を中心に活動していました。
高田屋嘉兵衛とゴローニン事件
1800年前後から、蝦夷や北方四島周辺で商売をしていた高田屋嘉兵衛。
ちょうどその頃、ロシアの人々が日本に貿易などを求める為に、船でやってくる事がしばしばありました。
1804年頃にも、ロシアからやってきたレザノフという外交官の人が開国を求めて長崎にやってきていました。
しかし、開国をしたくない日本は嫌がって、拒否しました。
面白くないレザノフは、手下のフヴォストフに命令して、樺太や択捉島で暴れさせました。
そのとばっちりを受けたのがゴローニンです。
1811年頃、ゴローニンを艦長に、ディアナ号という船が、千島列島の測量にやってきました。
またロシアが来た!捕まえてやれ!
という事で、上陸したゴローニンたちは捕まって、松前に連行されていきました。
突然艦長が連れていかれ、取り返したくてもうまくいかない船員たち。色々と頑張ったものの、ゴローニンは捕まったままです。安否すらわかりません。
それでも、副艦長のリコルドは諦めません。国後島周辺にディアナ号でまたやってきていました。
1812年、択捉島を拠点にしていた高田屋嘉兵衛が、国後島の沖を船で通りかかりました。リコルドが率いるディアナ号につかまり、ロシアのカムチャッカまで連れていかれました。
嘉兵衛に艦長は無事、という事を確認できたリコルド。丁度よく、嘉兵衛は幕府からの信頼も厚い海商だっという事もありました。
なんだかんだで嘉兵衛と仲良くなったリコルド。
嘉兵衛から『レザノフが勝手にやった事とロシア政府は関係ないから、ゴローニンを解放して欲しい』と正式な書類を幕府に出せば良いのでは?という提案を受けます。
リコルドは嘉兵衛を解放した後、正式な書類を用意して、改めて松前に行ってゴローニンの解放を求めました。
嘉兵衛の尽力もあって、ゴローニンは捕まってから約2年後、無事に解放される事になったのです。
ちなみに、この件を解決したことでロシアから、海で出会った時には高田屋の船である事がわかる合図を出して欲しいという話がありました。
ゴローニン解放の為に力を貸してくれた高田屋の船を襲わない、という約束の為です。
しかし、この事を役人などに言っていなかったり、商売に関する疑いをかけられたりした結果、嘉兵衛の弟の代で高田屋は没落してしまいました。
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