十勝と日高の海岸線に繋がる黄金道路。
道の途中にはフンベの滝という写真スポットもある事で有名な、ドライブにうってつけの道です。
黄金道路が本格的に作られたのは、昭和時代の事です。
しかし、実は江戸時代に付近の山を開削する工事が近藤重蔵という人物の力で行われていました。
北海道における和人にとって初めての道路工事だと言われています。
- 黄金道路ってどこにあるの?
- どうして黄金道路って言うの?
- フンベの滝ってどんな感じ?
- 近藤重蔵の史跡はどこにあるの?
など、黄金道路の事や、近藤重蔵の跡についてまとめてみました。
黄金道路って?
十勝と日高を結ぶ海岸の道路
- 海岸線沿いを通り続ける道路
- 天気が良い時はダイナミックな景色が楽しめる
- 波がざぱーんと打ち付けてくるのが見えるくらい
- 日高山脈の終わりの部分でもあるので、岸壁が続いている
- 海&崖が視界いっぱいに広がる
- トンネルが多い
- 夏はコンブ漁が行われている
- サーフィンしてる人も見えたりする
- 悪天候時(特に冬)には通行止めになる事も
ものすごくざっくり言うと、黄金道路はこんな感じの場所です。
ドライブで通るなら、夏のいい天気の日がイチオシです。
見どころとして有名なフンベの滝
激しい滝、ではなく岩壁を添うように流れている滝でした。
看板がある部分だけではなく、ちょっと広範囲に滝があります。
数台だけなら停められそうな空間はありましたが、混雑している時は横目に見るだけになってしまうかも?な印象です。
夏の暑い時に涼を求めてドライブがてら黄金道路を通る場合には、とっても涼しい気持ちにさせてくれるのではないでしょうか。
鯨の獲れる場所、鯨が浜に流れ着いていた場所だったために、フンベ、と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。
黄金道路の名前の由来
- 竣工当時の名前は『日勝海岸道路』
- 正式名称は『地方費道帯広浦河線』ともいうらしい
- 作る時にとてもお金がかかった
- 作った後も高波や落石・雪崩などの影響を受けて補修する度にお金がかかった
一説によると、普通の国道を作るのに使われるお金の10倍かかっているのだとか。
- 海岸に突き出た岩にトンネルを掘ったり
- 崖を削ったり
- 都合よく道が無い時は海岸を埋め立てたり
するなどの難工事が行われ、とてもお金がかかる道路=黄金道路と呼ばれるようになりました。
また、険しい場所であり、過酷な労働の中で命を落とす作業員の方もいたそうです。
黄金道路を知るなら
魚の体の仕組みや漁の事、広尾の街について詳しく知る事ができる博物館です。
黄金道路を作っている人々を再現したジオラマや、黄金道路に関する事も知る事ができるので、とっても勉強になります。
近くには太平洋戦争末期に旧陸軍によって作られた、トーチカ(防衛陣地)もあります。
海を見ながら歴史ロマンにどっぷり浸かりたい日にオススメです。
黄金道路の石碑
Googleマップなどで調べてみても、いまいちはっきりした場所が私には分かりませんでした。
という事で現地を見ながら作ってみましたこちらの地図↓
作った人間が大雑把なので、ざっくりの位置、として見て貰えると幸いです。
一次改築完成碑(広尾町)
- 広尾町から黄金道路に入る時にある
- 左側のちょっと高台にある
近くには車を数台停められるスペースがあるので、石碑になんて書いてるのかも読む余裕がありました。
この風景が見えてきたらその辺を見上げてみると分かるかと思います。
逆光でどこか分かんないよ!という写真で重ねてすみません。
一次改築完成碑(えりも町・望洋台)
- えりも町から黄金道路に入る時にある
- 遠目からみてもアレだ!って分かりやすい
- 広尾町からの入り口より写真を撮る時に逆光になりにくい
記念撮影スポットとしてはこちらの方が有名なのかも知れません。
広尾側の石碑よりも駐車場なスペースもゆったりしていて、道を走っていても分かりやすいです。
近藤重蔵蝦夷地山道開削二百年記念碑
十勝の広尾から、えりもの庶野を目指して黄金道路を走っていった場合、
- フンベの滝を通り過ぎた後の
- ルベシベツあたり
- ほとんど目黒地区の
- 駐車場がある場所
に石碑や解説の看板も建っています。
この石碑は、政治家の鈴木宗男さんが書いた文字を元にしているようです。
石碑の近くには駐車ができるスペースがあります。
車を停めて石碑周辺の看板の文字などをゆっくり読んだり、海を眺める事もできます。
周辺には近藤重蔵 開削口と書かれた標識や石碑もありました。
近藤重蔵開削記模碑
この石碑には何と書いてあるのかは読めませんでした。
写真の右側に移っているトンネルの名前が、重蔵隧道となっています。↓
この隧道のある場所の道路を挟んだ向かい辺りにも、近藤重蔵に関する標識が。
この標識のあたりから近藤重蔵が山道を開削した、という事が書かれています。
と思いながら見てきました。
黄金道路の歴史
黄金道路ができるまで
- 寛政10(1798)年 近藤重蔵が択捉島に標柱を立てた帰りに寄った際、ルベシベツから約3里(10㎞)の山道を開削工事
- 明治20~25(1890年前後)頃 山を削ったり発破を使った工事をして海岸沿いに道が造られる
- 大正2(1913)年 海岸線にちゃんとした道を作って欲しいと道庁にお願いが来る
- 昭和2(1927)年 本格的に道路を作る工事が始まる。十勝広尾~日高襟裳(庶野)を5つに分けて工事。
- 昭和9(1934)年 完成
- 昭和42(1967)年 落石や雪崩などで通行止めになるので改良工事が始まる
- 昭和56(1981)年 改良工事完了。(それでも悪天候の時は通行止めになる)
昭和2年から9年まで、7年かけて行われた工事によって、山を越えて往復に日数をかけていた移動も、日帰りでできる程になりました。
昭和初期の工事が完了するまでは、並行して使われていたのだそうです。
近藤重蔵って誰?
北海道神宮内にある、開拓神社に祀られている1人でもあります。
北海道・根室の東に浮かぶ北方四島の島の一つ、
択捉島に日本の土地だと示す為に『大日本恵登呂府』の標柱を建てた人物。
1798年、近藤重蔵はその択捉島へ行く行きと帰りの道の中で、十勝・広尾の海岸の道(現在の黄金道路周辺)を通っていました。
近藤重蔵が黄金道路を作ったの?
黄金道路そのものを作ったワケではありませんが、ルベシベツからビタタヌンケまでの山道を作っています。
岩壁が続く海岸線の道を通るのは、強い風や高波もあり、とても危険で大変でした。
近藤重蔵は同行していた通訳や、アイヌ民族の人々と相談し、自分のお金を使って人を雇い、海岸線沿いの山に道を作らせる事にしました。
当時、蝦夷地と呼ばれていた北海道は、道南に城を構える松前藩の管理下にありました。
藩に許可を貰わずに、近藤重蔵の独断で行われた道路工事だったのだとか。
そして、近藤重蔵による山道を作る工事は、北海道における和人初の道路工事だったと言われています。
って言っても実際はアイヌの人が使っていた山道を、ちょっと手入れした程度だったのでは?という事のようです。
この時の様子を従者である下野源助という人物が、板に彫って『東蝦新道記』として記録しています。
その後、十勝・広尾町の十勝神社に納められました。
実際に見ることはできませんが、十勝の中でも歴史が古い神社となっています。
寄り道しても楽しいですよ。
最後に
十勝と日高を結ぶ海岸の道路・黄金道路に残っている近藤重蔵の跡についてまとめてみました。
えりも町の資料館では、より詳しく江戸時代~明治期の黄金道路について展示があってとても勉強になりました。
広尾海洋博物館と一緒に見ると、より楽しいのではないでしょうか。
以上、十勝・広尾に残る近藤重蔵の跡や黄金道路について、おかめの勉強まとめでした。