北海道の屯田兵の父と呼ばれる、二代目道庁長官にもなっていた永山武四郎。
札幌ファクトリー近くには永山武四郎が住んでいた旧永山武四郎邸が残されています。
- 永山武四郎と北海道の関係
- 屯田兵の父と呼ばれたワケ
- 旭川・永山との関係
- 陸軍第七師団との関係
- 旧永山武四郎邸について
などについて調べてみた事や、旧永山武四郎邸に行って来た感想を簡単にまとめてみました。
永山武四郎について
一体どんな人生を送った人だったのでしょうか?
- 1837(天保8)年 薩摩藩士の四男として誕生
- 1868年 戊辰戦争では新政府軍側し、会津城攻めなどに参加
- 1872(明治5)年 開拓使に入る
- 1873(明治6)年 黒田清隆の要請で岩倉具視に屯田兵備設置の建議書を提出
- 1875(明治8)年 屯田事務局を担当
- 1877(明治10)年 隊長として屯田兵を率いて西南戦争に参加
- 1878(明治20)年 ヨーロッパやロシア各国へ兵制視察、周遊日記としてまとめた。この頃、屯田兵事務局長に昇進
- 1881(明治14)年 札幌に買った土地に自邸を建てる
- 1888(明治21)年 北海道庁長官(二代目)になる。屯田兵事務局の仕事と兼任
- 1889(明治22)年 屯田兵本部が屯田兵司令部に名前が変わり、初代屯田兵司令官に
- 1890(明治23)年 現在の旭川・永山に屯田兵村を設置。開拓を進めた
- 1894(明治27)年 日清戦争勃発。屯田兵による臨時の第七師団が作られ、師団司令官へ
- 1896(明治29)年 札幌に屯田兵を組み込んだ陸軍第七師団が作られ、師団長に就任
- 1900(明治33)年 師団が札幌から旭川に移転する際、現役を退く
- 1904(明治37)年 68歳で亡くなる
私にとっては、先人カードめぐりがきっかけで、深く知る事ができた北海道の偉人の1人です。
屯田兵の父として
屯田兵と永山武四郎
- 屯田兵創設の建議書を提出したから
- 屯田兵を率いるトップになったから
- 屯田兵と開拓に尽力したから
などの事柄で永山武四郎は屯田兵の父、と呼ばれているのだと思います。
ちなみに、屯田兵の設立建議書は永山武四郎個人だけの発案ではなく、
西郷隆盛・黒田清隆達の、戊辰戦争で職を失った武士の救済に対する考えなどから作られました。
また、永山武四郎は北海道の厳しい環境下で開拓をする屯田兵に対して、
「北海道の土になれ」と語っていたのだとか。
西南戦争の時には、屯田兵を率いて永山武四郎の出身でもある鹿児島へ向かい、西郷隆盛勢を相手に戦いました。
この時の戦いで、百姓の部隊、とバカにされていた屯田兵たちへの評価もがらりと高評価に変わったと言われています。
旭川・永山と永山武四郎
屯田兵を指揮して開拓をしていた永山武四郎が、旭川のとある村に入植した時のことです。
明治天皇に名前を付けて欲しいとお話をしました。すると…
『あなたの名前を付けたら良い』
という事で永山になったのだとか。
また、上川に天皇家の離宮を作ろう、という計画もありました。
日清戦争や他の都市からの反発などにより無かった話になりました。
永山村の事・上川離宮計画については、旭川・北鎮記念館に行くとより詳しく知る事ができるのでオススメです。
第七師団と永山武四郎
作中では日露戦争(1904年)に出兵していた第七師団が登場しています。
永山武四郎が第七師団に関わっていたのは、その約10年前、日清戦争(1894年)から1900年頃の事です。
日清戦争と第七師団
日清戦争時、北海道の屯田兵を主体に臨時の陸軍・第七師団が作られました。
1895年のことです。
当時、屯田兵を率いる責任者になっていた永山武四郎は臨時の師団司令官となります。
部隊を率いて東京に向かい、出征の準備を整えました。
しかし、臨時の第七師団が出征する前に日清戦争は終戦を迎えたため、出征する事なく終わりました。
屯田兵から陸軍・第七師団へ
1896年5月15日には陸軍中将・永山武四郎を師団長にした第七師団が正式に誕生
第なな師団ではなく、第しち師団となのは、明治天皇がそう呼んだ為なのだとか。
永山武四郎自身は1900年に現役を退きますが、第七師団はその後、日露戦争で目覚ましい活躍を残す事になります。
日露戦争についても詳しく知る事ができる旭川・北鎮記念館はとても勉強になる有難い場所です。
死してなお北方を護らん
1900(明治33)年に陸軍の現役を退いた永山武四郎。
その後は、貴族院議員にも選ばれました。
1903(明治36)年、会議に出席するため上京しましたが、病に伏してしまいます。
約半年後の1904(明治37)年5月、東京で亡くなりました。68歳でした。
永山武四郎には、屯田兵たちにお前たちはこの土地の土になれ。私も北海道の土になる。と言っていたそうです。
札幌の墓地に埋めて欲しい、とも常々言っていたのだとか。
葬儀も札幌で執り行われ、別れを惜しむ人々が大勢やってきたのだそうです。
屯田兵と共に北海道を奔走した永山武四郎は、本人の希望通り、札幌の地(現在は里塚霊園)に埋葬されました。
歴代の北海道庁長官の中で、お墓と邸宅が札幌にあるのは、永山武四郎1人と言われています。
旧永山武四郎邸
永山武四郎の先人カードめぐりがてら、旧永山武四郎に行ってきました。
※写真を撮る人間のセンスは皆無なので、全て参考になりません。
気になった方は是非、現地に行って見てきてくださいね。
基本情報
施設名称 旧永山武四郎邸及び旧三菱鉱業寮
住所 札幌市中央区北2条東6丁目
営業時間 9時〜22時
定休日 毎月第2水曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
料金 無料
駐車場 無し
営業についてはFacebookの旧永山邸を要チェックです
場所
サッポロファクトリーのほとんどお隣にあります。
ファクトリーの駐車場に停めて、永山邸を見てお買い物してから帰る、という事もできますよ。
ちなみに、サッポロファクトリーって元々はサッポロビールの工場だったって知ってますか?
>>ゴールデンカムイで名前が出てた村橋久成とサッポロビールの関係
見どころ
旧永山武四郎邸は、1880年頃(明治10年代前半)に建てられた、和洋折衷の建築様式の建物です。
永山武四郎が亡くなった後、北側に三菱鉱業セメント株式会社によって洋館が建てられました。
建物の中は無料で見学して回れるようになっています。
内部は見学できるようになっており、二重窓の説明までありました。
当時の時代背景などを丁寧に解説した映像もあり、明治時代に浸るのにもぴったりです。
カフェ(https://www.google.com/amp/s/s.tabelog.com/hokkaido/A0101/A010202/1058864/top_amp/)も併設されています。
のんびりお茶を楽しみつつ、北海道開拓期の歴史に浸る、素敵なひと時が過ごせますね。
最後に
屯田兵の父と呼ばれた永山武四郎について簡単に解説しました。
幕末・明治期の北海道の歴史をぎゅっと詰めたような人、という印象です。
永山武四郎は、北海道神宮内にある『開拓神社』や旭川・永山の『永山神社』に祀られています。
北海道開拓期の歴史のきっかけにもぴったりな1人なので、時間つぶしに歴史勉強など如何でしょうか。
以上、歴史大好き!博物館めぐりがてら北海道内を旅行するのが趣味な十勝民・おかめでした。
ちなみに、永山武四郎は北海道神宮の敷地内に建っている開拓神社に祀られている1人です。
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