先人カード巡りで中山久蔵という北海道米の父とも言える人物を知る事ができました。
気になって調べてみると、とっても楽しかったので簡単にまとめてみました。
- 北海道米の歴史が気になっている
- 北海道ってそもそもお米できなかったの?
- いつから北海道でお米が作られるようになったの?
と思っている方の参考になれば幸いです。
※北海道についての名称は時代問わず、北海道で統一して表記しています。
北海道と米作り
北海道に弥生時代は無かった?
中国から伝わってきた稲作は、狩猟や採集で食料を得ていた日本人の生活を変えました。
水稲栽培ができる事で、自分達で食料を作れるようになったのです。
その昔、米作りができる北限は津軽と呼ばれていた青森県まででした。当時の北海道(蝦夷)では寒すぎて稲が育たなかったのです。
北海道で安定的に米作りができるようになったのは、明治時代からです。
水稲栽培で食料が得られない北海道では、本州とは異なった歴史を歩みます。
7~13世紀頃の北海道
北海道では擦文文化・オホーツク文化の中にありました。
しかし、発掘された当時の土器には、お米の名残があります。
食用か儀式ようなのか、定かではありません。
外から米は持ち込まれていた、という事だけが分かっています。
近世アイヌ文化とお米
北海道で生活をしていたアイヌ民族はほとんど米作りをしていなかったと考えられています。
当時のアイヌ民族には主食の概念は無かったと言われています。
食文化的にお米がどうしても必要!という訳ではなかったんですね。
しかし近世以降、和人との交易によって米(シアマム)を手に入れ、食べていました。
食べ物として、儀式に必要なものとして、上等な酒の原料として、アイヌ民族にも米は貴重な存在になっていきました。
ちなみに、アイヌ民族は完全に農耕をしなかったワケではありません。
狩猟をする傍ら、雑穀を植えて育てていたんだとか。
なお、鎌倉時代頃から道南地方の一部を、松前氏(当時は柿崎氏)が治めていました。
とはいえ、当時の北海道では、適した米の品種がそもそも登場していません。
和人地や陣屋がおかれたところで、稲作の取り組みがされていた記録はあります。
しかし、連続して安定した収穫はされていなかったようです。
17~19世紀頃
1600年代後半には道南を中心に、安定した水稲栽培が北海道でも行われるようになっていました。
道南より北で試した人々もいましたが、上手くいかなかったようです。
北海道で本格的にお米作りが広がるのは、もう少し先、明治時代です。
開拓使と北海道とお米
明治維新で日本にできた新しい政府は、蝦夷を北海道を名づけ、開拓を進めます。
米作りが否定された?開拓使
1871年(明4)黒田清隆はアメリカの農務局長・ホーレス・ケプロンを開拓使の顧問に招きました。
ケプロンがした事を簡単にまとめると以下の様な感じです。
開拓使が雇った他の外国人技術者の指揮・統括。
北海道の開発計画や調査事業など、様々な産業の振興事業に関する意見や指針を出した。
お米を栽培するのにお金がかかり、栄養価も低い。それより小麦や果実・野菜を育てた方が良いと勧めた。
- クラーク博士が教頭先生を勤めた北海道大学では、カレーライスの日以外は米を食べられなかった
- 稲作を試みた農民や屯田兵が罪に問われ、投獄された
という話もあります。
※しかし、完全に米作りを否定していたワケではなく、後には開拓使も稲作に挑戦していました。
北海道と欧米化
開拓使はお雇い外国人のアドバイスを聴き、アメリカ農法で農作物を造ろうとしました。
札幌の市街地には西洋料理店も開業しました。
しかし、庶民の生活はあまり変わらなかったそうです。
北海道でも米が食べたい!
明治時代に北海道に移住したのは、屯田兵だけではありません。民間人もたくさん移住して、北海道を開拓していました。
そんな人々を悩ませたのは、米が無い、という事です。
暖かな函館周辺の道南地域では明治時代前から米が作れる場所もありましたが、全道的には作れませんでした。
日本人の生活に必要な“米”
日本人にとって、米は食べるだけの存在では無かったのです。
わらじ・ぞうりなどの履物、収納具やうわぎ、梱包材・運搬具などなど。
生活の必需品は、稲わらを使って作るものばかりでした。
北海道に入植した時、わら細工の技術を持った人もいました。
しかし、材料になる稲のわらは北海道にはありません。
- 古俵をほぐしたり、トウキビの皮やガマなどをわらの代用にしたり。
- 北陸や東北の米どころから買い入れたり。
特に、当時の北海道で盛んだった漁業では、網や梱包資材などにわらがとても必要でした。
そんな生活を続けていると、移住者の心の中ではこんな気持ちが芽生えていきます。
北海道という本州とは異なった気候・環境の場所でもなんとかして米を作ろうと頑張りました。
その中の1人が、現在の北広島に入植していた中山久蔵です。
どうしても北海道で米を作りたい。
そんな熱意を持った人々のお陰で、北海道の各地でもお米がとれるようになっていきました。
しかし、まだまだ美味しいお米になるまでは時間が掛かります。
現在の北海道米になるまで
まずいと言われ続けた北海道米
頑張って米作りを広めた明治時代から昭和の時代まで、北海道の米はまずいと言われ続けていました。
寒さに強い種が作られる北海道米は、美味しさの面ではまだ本州のお米に敵わなかったのです。
当時の北海道で作られていたお米は、アミロースというデンプンが多く含まれていました。
北海道民には安く手にはいるのは道産米だけど、高くても美味しい本州米を食べたいという状況だったそうです。
ちなみに、生産量自体では1961年に初めて新潟を抜いて、北海道が1位になっています。
爆誕!きらら397
- そもそもお米作りに適さなかった北海道で、ようやくとれるなっただけでも御の字
- 北海道のお米はまずくても仕方ない
と思って諦めなかったのが、米の品種改良を頑張っていた人々です。
本州を見返してやりたい!という気持ちもあったのかも知れません。
北海道はその努力の末、1988年、きらら397という品種を作り出しました。
きらきらした雪やつやつやしたお米を連想させる、きらら
育成系統番号の、397
このきらら397は、北海道米なのに美味しいお米として、当時はとても衝撃的だったそうです。
安い上、丼物にしてもお米がふやけない事から、牛丼チェーンで使われる程でした。
北海道米は美味しい!と言われる時代
きらら397の誕生以降も、寒さに強い品種と美味しい品種の掛け合わせから、様々なお米の品種が産まれていきました。
そしてついに1990年代~2000年代には、今でも美味しいと評価されるお米が産まれるようになります。
- 2001年に産まれたななつぼし
- 2008年に産まれたゆめぴりか
は、2011年、日本穀物検定協会の食味ランキングで一番の特Aに輝きました。
現在、北海道ではこの特A級のお米にななつぼし・ゆめぴりか・ふっくりんこが選ばれています。
米の食味ランキングは、炊飯した白飯を試食して評価する食味官能試験に基づき、昭和46年産米から毎年全国規模の産地品種について実施しています。
食味試験のランクは、複数産地のコシヒカリのブレンド米を基準米とし、これと試験対象産地品種を比較しておおむね同等のものを「A’」、基準米よりも特に良好なものを「特A」、良好なものを「A」、やや劣るものを「B」、劣るものを「B’」として評価を行い、この結果を毎年食味ランキングとして取りまとめ、発表しています。
出典元・一般財団法人 日本穀物検定協会
このお米たち、中山久蔵がお父さんと言っても過言ではないのです。
最後に
北海道とお米の歴史について簡単にまとめてみました。
生活の不自由さ、美味しいお米が食べたいという気持ちから、今の北海道米が作られたという事なんですね。
調べてみると奥深い、北海道とお米の歴史。北海道の歴史勉強のきっかけとして、オススメですよ。
以上、歴史の勉強が趣味な北海道民・おかめでした。
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