今でこそ美味しい北海道米ですが、かつて北海道は稲作に適さない土地でした。
そんな北海道でゆめぴりか・ななつぼしというとっても美味しいお米が作られています。
お米がとれなかった場所から、美味しいお米がとれるようになるまで。
その歴史の中には中山久蔵という人物の大きな存在がありました。
北海道の歴史が気になってる
中山久蔵って誰?
どうして北海道でお米がとれるようになったの?
お米をもっと美味しく食べたい
と思っている方の参考になれば幸いです。
中山久蔵って誰?
寒冷地稲作の父とも呼ばれる中山久蔵の生涯を簡単にまとめてみました。
河内(大阪)産まれの片倉家従者
1828年、河内(今の大阪府)の農家・松村家の次男として生まれました。
1845年、17歳で故郷を離れ、江戸などを巡って諸国を渡り歩きます。
1853年、浦賀に黒船がやってきた同じ年に、仙台藩の藩士・片倉英馬に仕えました。
その頃、仙台藩は今でいう北海道の白老~根室~北方四島などの警備を任せられていました。
時代が明治に変わるまでの約15年の間、久蔵は白老と仙台とを行き来していたと考えられています。
明治維新後に北海道永住へ
明治維新後の1869年(明治2)、久蔵は仙台藩を離れて北海道永住を選びました。
武士の時代が終わって下級武士には仕え先が無くなるから
仙台藩は新政府軍に敵対していた側だったから
などという事から、就職難の為に北海道に渡ろうと思ったとかいないとか。
何にせよ、1871年(明治4年)、久蔵は44歳の時に北海道へ移り住む決意をしました。
最初は勇払(現・苫小牧市)に住みましたが、作物が思ったように育ちません。
同じ年に、土地が肥えていて作物を育てるのに易しいと考えられていた島松(現・北広島市)に移り住みました。
道央で米作りの伝道者に
当時の北海道では、道南ではお米がとれていました
が、それより北では上手に稲が育たず、思うようにお米が作れませんでした。
開拓使が雇った外国からの先生も、お米より麦とか野菜を育てた方が良い、と言っていたくらいです。
とはいえ、日本人は今も昔もお米が大好きです。
という考えから、島松でのお米作りに挑戦したと言われています。
お風呂のお湯を水田に入れたり、暖水路を造ったりなど工夫をしながら、粘り強くお米作りに挑みました。
その努力の甲斐あって、赤毛種のお米を収穫する事に成功しました。
栽培に成功すると、更に寒さに強い赤毛種の選抜を続け、もっと育てやすい品種にする努力を続けます。
そうして、久蔵の活動は、今の上川・空知・上川地方へと米作りを広がるきっかけになりました。
ちなみに、苗字の中山は、開拓使長官の黒田清隆から、山の中のようだった島松を開拓したという事で『中山』と名乗ると良いのでは?と言われた事がきっかけだったのだとか。
島松駅逓所と明治天皇巡幸
という事を広めた久蔵は、松島の指導者的立場になっていきました。
松島の駅逓所を任された久蔵は、1881年(明治14)に明治天皇が北海道を見て回った際、宿泊所の準備もしました。(明治天皇巡幸)
その時には明治天皇に自分が作ったお米を昼食に出して、褒められています。
1877年(明治10)、西南戦争が起こっていた年に行われた第一回内国博覧会では、久蔵は米を出品していました。その時にも、内務卿・大久保利通から褒賞を貰っています。
北海道でもお米が作れる。その事を知らしめた事から、明治天皇の巡幸先にも選ばれたのですね。
※今風に言うと、馬のレンタル可!宿泊OK!な郵便局だと考えれば分かりやすいかと思います。
北海道庁でお米作りの先生に
しかし、久蔵やお米を作る努力を諦めなかった人たちの行動の結果、お米が作れる事が分かっていきました。
1892年(明治25)、北海道庁は現在の東京大学農学部にあたる東京農科大学の酒匂常明を財務部長として招きました。
そして、酒匂は久蔵にお米作りの指導を受けながら稲作試験場を作り、北海道庁として、お米を本格的に作る事を始めたのでした。
北海道・百万石へ
1915年(大正4)、久蔵は88歳でこの世を去りました。しかし、その頃には既に北海道の広い地域で米作りが盛んになっていました。
1920年(大正5)、ついに百万石の米どころへと北海道は成長を遂げたのです。
一石=お米約150キロ
江戸(文久)時代の石高ランキング
1位・金沢藩120万石
2位・鹿児島藩72万石
と考えると凄さが分かるのではないでしょうか。
どんな人だったのかもっと知りたい!という方にはコチラがオススメです↓
私も読みましたが、物語仕立てで読みやすいです。
開拓使の松本十郎や高田万次郎とのつながりも描かれていて、読み応えもありますよ。
中山久蔵の稲作チャレンジ
寒さに強い赤毛種をゲット
1850年頃、大野村の高田万次郎が大野村で赤毛種や白髭種の米を収穫する事に成功しました。
稲作を教えてもらいたい人々に教えている中で、中山久蔵も赤毛種の種もみを分けてもらったと考えられます。
久蔵が北海道で米作りを頑張るより前の時代、文久・安政の頃に津軽や南部からコメの品種が道南に入ってきていました。
ただ、赤毛種がどんなルートを辿って大野村に存在するようになったかは、謎に包まれています。
- 津軽や南部などから古くから入ってきて、道南の風土に根付いたもの
- 渡島地方で栽培されていた津軽早生の中から寒さに強いものを選出したもの
- 古くに入って来た稲が大野村に根付き、凶作などを経験しながら自然淘汰されて強く育ったもの
などではないのか?と考えられていました。
赤毛種をDNAで解析してみてみると、親にあたる種が秋田県に見られたのだとか。
そこから、北海道の風土に適していったと考えられています。
なんにせよ、東北地方から渡ってきた稲が、時間をかけて北海道の環境に徐々に適していたのが、大野村に存在していた赤毛種、という事なのでしょう。
健やかな稲を育てる為の努力
稲を育てるまで、簡単に言うと、発芽→苗代→田んぼ→収穫という流れになります。
赤ちゃん→小中学生→高校・大学生→社会人とイメージすると分かりやすいかも知れません。
詳しくはコチラのサイト様が画像付きで分かりやすかったです→お米ができるまで
寝ずにお湯で温める
発芽から苗代(田んぼに植えられる状態)になるまで、稲のタネは温かい水がないと育ちませんでした。
なので、お風呂で沸かしたお湯を入れたり、寝ないで温度管理を続けたりしたそうです。
暖水路の役割
育って、田んぼに植えて水を入れておけば順調に育つ、という訳でもないのがお米です。
なので、田んぼに入る水を温める事が必要になります。
- 川から直に冷たい水を入れない
- お日様の光を時間を掛けてあてて水を温める
為に作られたのが暖水路です。
例えば、滑り台から水を流すより、階段から水を流すイメージでしょうか。
滑り台より、階段の方が段々になっている分、ゆっくり流れますよね。
無償で配布&指導
久蔵は自分が育てて作った稲の種もみを希望者には無償で譲り分けていました。
そして、稲の指導にも出向いていたのです。
久蔵の愛と布教活動の結果、道央地域での稲作はぐっと普及していく事になりました。
北海道米が美味しくなった理由
今では美味しいと言われている北海道米。かつてはあまり美味しくない米の代表という扱いでした。
北海道ではお米が育てられる、という所止まり。稲の栽培に適した本州のように、美味しいお米はすんなりとれなかったのです。
という気持ち(たぶん)で品種改良が重ねられた結果、北海道米は美味しくなっていったのです。
その美味しい北海道米の筆頭が、ななつぼし・ゆめぴりか、ふっくりんこなどです。
大元は耐冷性のある赤毛種と、味の美味しいコシヒカリなどと掛け合わせて産まれた品種です。
北海道米だって美味しいんだぞ!という革命を起こしたきらら397は家族構成っぽく言うと、上の兄弟みたいなものです。
が、ななつぼしやゆめぴりかと考えると分かりやすいのではないでしょうか。
親族の良い所どりをして産まれた品種って事ですね。
北海道の美味しい食材を知るにはコチラがオススメです↓
発行されてから数年が経っていますが、食材の基本的な知識がたっぷりなので、とても勉強になります。
お米についても記載があるので「こんな品種や時代があったのか」と知るきっかけにも丁度良いかと思います。
最後に
明治時代にはほとんど無理と考えられていた、道南から北での米作りに挑んだ中山久蔵について、簡単にまとめてみました。
読んでみたけどよく分かんないよ!
という方は、
日本人にとってのお米は超絶人気アイドル
皆から愛されるゆめぴりかちゃん、ななつぼしくんというアイドル
2人が産まれる原点を作った、今は亡き敏腕事務所社長が中山久蔵
とイメージしながら読んでみて下さい。
見方が変って読みやすくなるかもしれません。
以上、ジンギスカンを食べる時には炊きたての白米がかかせない!おかめでした。