サッポロビールの始まりを作った人物の1人に、村橋久成という人物がいます。
ゴールデンカムイでは牛山さんがビールを飲んでいる時に名前を出していた人ですね。
サッポロビール博物館に行くと、見学内容によっては村橋久成に関する映像を見る事もできます。
- 村橋久成ってどんな人?
- サッポロビールとの関係は?
- どうして北海道でビール作り?
という事について実際にサッポロビール博物館で見てきたものや、自分で調べてみたものを元にまとめてみました。
- サッポロビールの歴史が気になっている方
- ゴールデンカムイの聖地巡礼の旅に出る予定の方
の参考になれば幸いです。
村橋久成って誰?
開拓使麦酒醸造所の責任者
村橋 久成(むらはし ひさなり)は、北海道・開拓使時代の役人です。
開拓使の資金源などの為に、ビール作りをする事になり、その事業を任されました。
ちなみに、ゴールデンカムイでは第6巻で名前が登場しています。
明治維新では新政府側の人
1842年に今の鹿児島県、薩摩藩の藩士の家に生まれました。
1865年には、藩による留学生の1人として、イギリスにも渡っています。
日本が徳川の時代から新しい明治という時代に変わる激動の時代の中では、新政府軍の一員として戦っていました。
後に開拓使長官となる黒田清隆も薩摩の出身で、戊辰戦争の時には共に各地を転戦しています。
北海道・箱館(函館)の五稜郭で旧幕府軍の土方歳三や榎本武揚らが、新政府軍と戦った箱館戦争の時もその場にいました。
そして、黒田の指示で榎本に降伏を勧める使者となり、2人の話し合いにも立ち会っていた人物でもあるのです。
- 北海道で栽培する農作物を実験的に作る場所の責任者
- 今のサッポロビールに繋がる開拓使麦酒醸造所の責任者
という仕事を務めていきます。
苦労続きのビール作り
村橋の北海道でのビール作りは、中川と共に、本格的に動き出していきます。
なんとしてでも良いものを完成させる!
村橋のビール作りにかける思いは強いものでした。
しかし、そう簡単にはいかなかったのです。
- ビール作りを始めたばかりの時は、発酵が上手くいなかった
- ビール瓶を作る工場が無かったので、丁度良い瓶が無かった
- 外国のビール瓶をリサイクルして使ったらコルクでうまく密閉できなかった
- 輸送中に中身が全部出てしまっていた
と、問題や課題がたくさんだったのです。
ビール作りなどの開拓使の事業を指揮していたのは、開拓使長官の黒田清隆です。
- 黒田は、東京にいる政府の偉い人・大久保利通に、出来上がったビール12本を、成果報告の為に贈る。
- しかし、集めたビール瓶にフタとして使われていたコルクは、全く合っていなかった。
- そのため、運んでいる中で中身が全部出てしまっていた。
- 偉い人への贈り物で恥ずかしい思いをする黒田。
- ちゃんと気を付けて作ってくれないと困るよ!という旨のお叱りの手紙を村橋に送る。
それでも、北海道でビール作りを始めてから一年後のことです。
明治10年には開拓使のシンボルである
赤い星・五稜星がラベルに描かれた、
サッポロラガービールという名前で広く発売される
ビールの味を知っている外国人からも好評だったそうです。
中川清兵衛がビールの作り方を学んだベルリンビールから、
ドイツ産ビールのように美味しい!
というお墨付きを貰う
おかげで、美味しいサッポロビールが現代でも飲めると思うと、ますます美味しく感じてしまいますね。
北海道でビールが作られたワケ
開拓使が行った事業にはビール作りの他に、ワイン作りや養蚕業など様々なものがありました。
当時の日本では、ビールそのものの存在はまだ広く知られておらず、外国で作られた飲み物というイメージが強かった時代です。
- 原料になるホップがあったから
- 気候がビール作りに適していたから
- ビールを外国に売ってお金にしたかったから
などの理由があったのです。
原料になるホップがあったから
北海道開拓をスムーズに、効率良く行うために、開拓使長官・黒田清隆は外国から参考になる人を雇っていました。
そして、ビール作りに必要なのは、簡単に言うと美味しい水と麦とホップという植物です。
このホップも、北海道に野生している事が他の人の調査で分かりました。
という事で、開拓使は大麦栽培&ホップ栽培をする事に決めました。
気候が適していたから
開拓使では、北海道ではなく東京で試験的に様々な植物を作ってから、成功したら北海道にも植えようという事をしていました。
そして、その流れでビールも作ってみようという事になったのです。
しかし、そこに村橋が反対の声を上げました。
村橋は、ドイツでビール作りを学んだ中川や、ドイツに住んでいた役人と作り方の話し合いをしていました。
その為、東京で試しに作るより、冷涼な北海道で作った方がむしろ成功するのでは?という結論に至ったのです。
中川がドイツで勉強したのは、低い温度で麦汁を発酵させて作る方法でした。
そして、試験的に作物を作っている農場も、北海道でよりよい成果を収めるため、というよりも、政治的な面の方が強い場所でした。
政府の偉い人や外国からくるお客さんに、こんなことして頑張ってます・今の日本でもこんな事できます!というアピールの方が強いと村橋は感じていました。
北海道には醸造所を建てるのに必要な木材などの資材もある事も踏まえて、村橋は反対の声を上げたのでした。
そして、その意見が聞き入れられ、開拓使として麦酒醸造所を北海道・札幌に作る事が決められたのでした。
村橋はその後、苦戦しながらもビール作りを完成に導いたのでした。
ちなみに、詳しいサッポロビールの歴史を知るには、サッポロビール博物館の見学がぴったりです。
有料のプレミアムツアーでは、村橋久成または中川清兵衛の紹介映像を見る事もできます。
とっても勉強になるので、オススメですよ。
最後に
サッポロビールの元を作った男の1人、村橋久成について簡単にまとめてみました。
北海道の開拓に欠かせない、開拓使とビールの歴史はとても深くて面白いので、歴史の勉強のきっかけにもオススメですよ。
また、札幌の複合商業施設でもあるサッポロファクトリーは開拓使のビール工場の跡地に建っています。
当時の建物の名残も見られたりするので、お買い物やお出かけの時、ちょっと歴史ロマンに浸ってみては如何でしょうか。
以上、歴史旅を楽しんでいる十勝民おかめ(@okame_0515)でした。
↓明治維新な北海道について、分かりやすく読みやすいのでオススメです↓