サッポロビールの大元を作った人物の1人・中川清兵衛。
サッポロファクトリーの開拓使麦酒醸造所賣捌所(さっぽろかいたくしビールうりさばきしょ)とちょっとした関係があります。
サッポロファクトリーとサッポロビール、どんな関係があったかご存知でしょうか?
そして、中川清兵衛はサッポロビールとどんな関係があったのでしょうか。
実際に行って知った事、調べた事を簡単にまとめてみました。
開拓使麦酒醸造所賣捌所についてもご紹介しますね。
北海道の歴史勉強の参考になれば幸いです。
サッポロファクトリーと開拓使の関係
サッポロファクトリーは、かつて開拓使がビールを作っていた麦酒醸造所の跡地に建っています。
サッポロファクトリーのレンガ館一階の屋外には、赤い五稜星が描かれた煙突が。
煙突にも、すぐ近くにあるレンガの建物にも、白いペンキで開拓使麦酒醸造所と書かれています。
ここでかつて開拓使が麦酒を作っていた歴史の名残です。
札幌開拓使麦酒醸造所
札幌開拓使麦酒醸造所は中に入って見学できるようになっていました。
入り口から続く階段を上がると、ラベルを模したタペストリーがお出迎えしてくれました。
壁いっぱいには開拓使と麦酒の歴史が描かれ、ビールの作り方なども実際の道具と共に紹介されています。
無料でふらっと立ち寄る事ができるので、お買い物ついでにもぴったりかと思います。
しっかりサッポロビールの歴史を知るにはサッポロビール博物館の見学ツアーがオススメです。
開拓使麦酒醸造所賣捌所
ファクトリーのシンボルマークのような、五稜星の煙突。
この煙突のすぐ目の前にあるのが、開拓使麦酒醸造所賣捌所です。ここで、中川清兵衛の先人カードを貰えました。
サッポロビールを楽しめるちょっとしたバーのような場所です。
店内の壁にはサッポロビールのポスターなどが貼られていて、とっても雰囲気があります。
中では色んな種類のビールを気軽に楽しめるようになっていました。
場所 サッポロファクトリー レンガ館1階
営業時間 11時~20時(LO20時)
定休日 12月31日
公式サイト https://www.sapporobeer.jp/brewery/sapporokaitakushi/
中川清兵衛とサッポロビールの関係
醸造人・中川清兵衛
ビールは、大麦から作った麦汁にホップという植物を加えて、酵母の力で発酵させて作られるお酒です。
この発酵がちゃんとできるように管理をしてあげるのが、醸造人のお仕事なのです。
ドイツでビール作りを勉強した中川清兵衛は、開拓使からビール作りを任された村橋久成と出会います。
北海道の冷涼な気候を生かして、美味しいビール作りを実現させた人なのです。
中川清兵衛ってどんな人?
江戸時代末期にあたる、1848年に生まれました。5年後には日本に黒船が来たりと激動の時代を生きた人です。
17歳頃、外国人商館に勤めていた清兵衛は、こっそり英国に自力で行きました。当時、日本から出るのは簡単に許されることではなく、ホントはやっちゃいけない事です。
その後、ドイツに移ってからドイツのベルリンビールでビール作りを勉強します。
一方、開拓使では資金源にするためにビール作りをする事になりました。このビール作りを担当した役人が、村橋久成です。
>>村橋久成って誰?
中川清兵衛は、ドイツにいた日本の役人に紹介され、日本に帰って来てからは村橋久成と一緒にビール作りをする事になったのです。
醸造所の設計図を書いたり、ビールの醸造を担当する清兵衛。久成はお金を集めたり、必要な資材や道具の調達、上の人とのやり取りは役人である久成が行っていました。
最初は上手くいなかなったビール作りでしたが、二人や周りの人の努力もあり、1877年に完成しました。
清兵衛は民営の会社になった後も、それまでと同じようにビール作りに携わってきました。
しかし、時代は移り変わっていきます。遠方へも安定した品質のビールを届ける、という改良の為にビールの製造に変更をする話になりました。
反発しましたが、清兵衛の考えは時代の流れに即していないと聞いてもらえませんでした。
苦楽を共にした久成は、開拓使が廃止される直前に辞職してもう居ません。1891年、清兵衛は会社を退職しました。
その後は小樽で余生を過ごしたと言われています。
最後に
サッポロファクトリーとサッポロビール・中川清兵衛の関係について簡単にまとめてみました。
サッポロビールの歴史は開拓使の歴史そのものです。
その歴史を感じながらビールを楽しめる開拓使麦酒醸造所賣捌所は、ロマンが詰まった場所だと思います。
サッポロファクトリーに行く機会があれば、立ち寄ってみては如何でしょうか。