十勝の開拓の先駆け、晩成社。
朝ドラ『なつぞら』でバターを作っていた、という話を覚えてる方も居るかもしれません。
六花亭のお菓子には、晩成社に関するものをモチーフにした物も多くあります。
- 依田勉三ってどんな人?
- 鈴木銃太郎・渡辺勝って誰?
- 晩成社って結局何をしていたの?
- 晩成社の困難って何?
- 最終的にどうなったの?
という事について、調べて勉強した事をまとめてみました。
今の帯広で依田勉三を見る
依田勉三と晩成社について語る前に、今現在帯広神社で貰えるお守りと、中島公園の依田勉三についてご紹介したいと思います。
帯広神社のお守り
帯広神社周辺に、かつては晩成社の持っていた土地がありました。
そのゆかりからか、十勝開拓の先駆者としてからか、帯広神社では依田勉三が読んだ詩を元にしたお守りが扱われています。
大丈夫(ますらお)が 心定めし北の海 風吹かば吹け 波立てば立て
大丈夫(ますらお)は、益荒男の事です。
万葉集では強く勇ましい男として使われていました。十勝に渡る前の決意をこめた詩なので、恐らくこんな意味なんだと思います。
十勝の開拓を俺はやってやる!どんな事が起きてもめげない!だって俺は強い男だから!
※あくまでも個人の解釈です。
この詩の通り、依田勉三は「こんな事って起きる?」と思ってしまうような困難や問題にあってもめげず、十勝で頑張り続けました。
ちなみに、写真のお守りは2020年の1月に買ったものです。
ようやく初詣に行けました🙌
シマエナガの人気が高いなぁ、と思いながら今年も『大丈夫まもり』を頂いてきました🐥
晩成社の最期を知った家族からそれホントに大丈夫なの?と聞かれましたが、困難に負けない!何があっても大丈夫!という気持ちが大事なんだo(`・д・´)o#お守り #十勝 pic.twitter.com/NReQUwEvX8
— おかめ (@okame_0515) January 5, 2020
中島公園の銅像
中島武市という人が昭和初期に建てたのが、帯広神社のお向かいにある、中島公園の依田勉三の像です。
帯広にはこんなにすごい人が居たんだ!という事を広く知ってもらうために、自己負担で建てたのだそうな。
ちなみにこの中島武市さんという方、十勝出身のシンガーソングライター・中島みゆきさんのおじいさんにあたる方だそうです。
今建っているのは、戦時中に軍に金属として回収された後、改めて作られたものです。
依田勉三と晩成社
依田家の作った営利企業・晩成社
- 株主たちから資本金を集めて
- 会社の利益を株主に返す
- 営利企業として作られた
十勝開拓をするための会社、というよりも、十勝を開拓して作物を作ったり、お金を稼ぐ事業をする会社、という事になります。
晩成社に雇われて十勝に入って頑張ったのは、今の静岡に住んでいた人々です。
そして、勉三が十勝へ渡ってからも、何かとお金の工面をしたり、人手が足りないと、勉三の兄弟も十勝にやってきていました。
その晩成社には、勉三がワッデル塾に通っていた時に知り合った、鈴木銃太郎・渡辺勝が幹部として在籍していました。
依田勉三について
1853年、伊豆(今の静岡県)の名主の三男として生まれました。
慶應義塾で勉強した後、ワッデル塾に入り、鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合いました。
そして卒業後は兄の作った学校で教員として働いていました。
この頃、開拓使は北海道に様々なアメリカ人を招いていました。
その中の1人、ケプロンは北海道の調査報告書の中で、十勝に肥沃な大地が広がっている事を調査結果として紹介しました。
未開の北海道・十勝を開拓する事を勉三たちが考えたきっかけになります。
1881年、十勝の様子を調査した後、晩成社として十勝の開拓をする事にしました。
理想を掲げて十勝の開拓を頑張った勉三は、牧場の経営をしたりと様々な事業を試しました。
しかし、開墾は予想よりも時間がかかり、
- 作物ができてもバッタに襲われたり
- 霜にやられて冷害にあったり
- 火事にあったり
- 洪水が起こったり
と、中々うまくいきませんでした。
幹部・鈴木銃太郎
1856年に生まれ・1926年に71歳で亡くなった、今の芽室町辺りを開墾した人です。
1882年、勉三と共に十勝に入り、単身残って土地の様子を見る事になります。
どんな作物が育つか、試してみたりしたのです。
このとき、マラリアにかかったり、食料が無い時に近隣のアイヌの人々に助けられました。
アイヌの人々とも親しくなった銃太郎は、晩成社の人々が十勝入りしてからも交流を深めていました。
イオマンテ(熊送り)などのカムイノミ(神へのお礼をするお祭り)などのアイヌの人々のお祭りにも招待されるほどだったそうです。
後にコカトアンというシブサラ(士狩・現芽室町周辺)の酋長の娘と結婚し、子宝にも恵まれました。
うまく作物が育たない事などをコタン(アイヌの村)に来ては泣いて話していたそうです。
なので、パラパラ(泣き虫)ニシパ(お兄さん)と呼ばれていたくらいなのだとか。
1887年、銃太郎は晩成社に、会社の規則を改善する内容の書類を出しました。
- 会社に収穫できた内の20%を納める事
- 会社にお金を借りる時の利子は15%
という内容がありました。
この規則は、晩成社に勤めて土地を開墾している自分達には厳しいから下げて欲しい
とお願いしたのです。
天災などに見舞われ、開墾は思ったように進まず、作物や家畜などの育ちも悪かった頃です。
そんな中で会社にお金を取られるのは厳しい、という声を上げたのでした。
しかし、晩成社は会社の役員と会議をした後、銃太郎の要求を却下します。
そのため、銃太郎は幹部を辞める決断をしたのでした。
晩成社が主に開拓していた下帯広(現帯広市の電信通り周辺)から離れ、今の芽室町周辺を開墾するようになりました。
農場を作ったり、新しい移住者の受け入れや指導をしながら、地域に尽くしていったと言われています。
幹部・渡辺勝
1854年に生まれ、1919年に69歳で亡くなった、今の音更町・然別周辺を開墾した人です。
開拓の為十勝に行く前に鈴木銃太郎の妹であるカネと結婚しました。
開拓の辛さに嫌気がさす人々も多いなか、晩成社の幹部として開拓に取り組んでいきました。
晩成社の人々がマラリアにかかって大変な時には、あったキニーネを上手に使って助けました。
また、カネは子供達を集めて、自宅でささやかな勉強の教室を開いていました。
コチラ↓の本は渡辺カネが主役となっています。
勝は銃太郎と共に人望があり、アイヌの人々とも親しくしていたそうです。
チキリタンネ(背の高く足の長い)ニシパ(お兄さん)とも呼ばれていたのだとか。
銃太郎が幹部を辞めた後、勝も幹部を辞めて、下帯広村から離れた場所を開墾するようになっていきます。
1893年には今の音更周辺に移住して、開墾を進めていきました。
また、六花亭のお菓子である『ひとつ鍋』このお菓子の由来である、『開墾は豚とひとつ鍋』の詩の発端は勝だとも言われています。
晩成社と開拓
十勝に入って開拓を頑張っていた晩成社ですが、様々な困難に見舞われます。
特に大きな困難だった、
- 労力不足
- 霜害
- バッタの被害
- 人による火事
- 無願開拓からのスタート
について簡単にまとめてみました。
労力不足
晩成社が十勝に入って開拓を頑張った一年後。
当初の計画の広さの11分の1しか、開墾が進んでいませんでした。
その後も頑張って開墾を続けていましたが、計画のようにはすんなりいきませんでした。
- 慣れない土地の厳しい開墾が嫌になって、人が逃げた
- 作物が育たなくて、食べるものが無くなり、力が出なくなった
そんな労力不足も原因の一つと言われています。
霜害
作物が思ったように育たなかったのは、労力不足だけではありません。
作物の根などが霜にやられて、ダメになった事もありました。
- 寒さに弱い作物を知らないで育てていた
- 寒さに強い品種でも、適正な時期に種を蒔かなかった
事などが原因でした。
バッタの被害
※私のイメージです
当時の北海道では、バッタの大量発生が色んな場所で問題になっていました。
バッタは草でも服でもなんでも食べてしまうので、通り過ぎた後には何も残らなかったのです。
それも1度や2度の話ではありませんでした。
バッタの発生源そのものが対処されるまで、晩成社はバッタの被害に悩まされます。
晩成社を題材にした絵本や児童書などで、よくバッタ襲来の話が出ています。
人による火事が起きる理由
開墾の為に草地に火を放って、その風向きのせいで火事になる事もありました。
が、晩成社を困らせたのは第三者が原因の火事です。
当時の北海道では鹿の毛皮や角を取って売る、という商売の仕方がありました。
しかし、
- たくさん取り過ぎた
- 大雪で餌が無くなった
などの影響で、十勝では鹿そのものの数が減っていたのです。
エゾ鹿の角は生え変わって、抜け落ちるタイプです。
なので、生きた鹿は居なくても、探せば角が拾えました。
その角を拾って、売っていた人がいたのです。
そして、晩成社の畑も燃やしてしまったという事が度々あったのです。
一度、こいつが犯人です!と警察に突き出してみたものの、証拠が無いからという理由で取り合って貰えなかったそうです。
十勝川の洪水
今でこそ整備されて、洪水なんて滅多に起きない十勝川です。
しかし、この
- 十勝川がたまに氾濫することで
- 土壌が豊かになり
- 十勝の土地が肥沃になる
という事に繋がっていました。
大地の厳しさにフルボッコにされる晩成社。
しかし、もっと根本的な『無願開墾』問題も抱えていたのです。
無願開墾からのスタート
勉三は、晩成社として十勝開拓に乗り出すため、許可を求めてはいました。
しかし、許可がおりなかったのです。
当時、十勝の原野は肥えた場所だという認識は役所にもありました。
しかし、ロシアの脅威から遠い土地であったり、急いで開拓する理由もなかったので、後回しにされていました。
当時の十勝は大きな道が無く、港も他と比べて整備されていません。
なので、役人の人たちは
- 開拓する人を入れる場所を決めた上で、
- 開墾を進めたい
と考えていたのです。
しかし、晩成社は無願開墾です。開墾した土地が、自分の物になる確実な保証はありません。
とっても不安定な状態のスタートを晩成社は切っていたのです。
しかし、勉三は開拓して成功したら認めて貰える、と開拓を続けていました。
その想いが報われたのは1892年頃です。
そのとき、職員と話し合って、自分たち晩成社が開墾した場所を説明し、認めてもらう事に成功します。
1893年、晩成社はついに正式な許可を得る事ができたのでした。
入植してから、約10年の月日が経っていました。
この後、1896年頃には区画選定を済ませた十勝の土地は、開墾が前向きに進められていきます。
二宮尊親率いる興復社などの団体や、渋沢栄一率いる三井財閥の開墾合資会社、県民団体などによって、大々的に十勝の土地開墾が始まったのでした。
晩成社と、他の団体とでは、開墾を始めるまで10年の差があります。
依田勉三率いる晩成社は頑張っていました。
が、その努力に対して得られたものは残念ながらあまり無かったのです。
そのため、他の団体よりリードしている事もそれ程なく、むしろ段々追い越されていく事になります。
十勝で様々な事業を試した事もあり、借金も抱えていました。
そうして、晩成社は1916年に倒産・解散する事になるのでした。
晩成社がうまくいかなかった理由
晩成社・依田勉三が抱えていた問題の中でも、
- 十勝の気候を理解しないまま農業をしようとした
- 十勝に連れてきた人々と勉三の想いの差
- 道がなく交通の便が悪いのを認めようとしなかった
- 次から次に新しい事に手を出した
- コミュニケーション不足
という事が特に問題だったと考えられています。
どういう事なのか、簡単に説明したいと思います。
十勝の気候を知らない状態で開拓スタート
十勝の冬は静岡よりも早くやってきます。
そして、当たり前ですが、静岡よりも北海道の冬は寒いです。
つまり、育てるのに適した作物も違えば、種を蒔く時期にも違いが出てくる事になります。
しかし、勉三が連れてきたのは、主に静岡の人々です。
初めての土地で、事前の勉強もなくいきなり「さあここで農作業をしましょう」とスタートさせられたようなものです。
十勝に連れてきた人々との想いの差
晩成社が集めた人々は、勉三や幹部のように熱い想いを抱いていたかといえば、そうではありませんでした。
時は明治時代初期です。
- 『得たいの知れない未開の土地』
- 『熊などの獣が出る所』
- 『寒さの厳しい地の果て』
なかなか、人が集まりません。
そして、当時、いくら頑張っても生活が苦しかったり、思うように生きていけない人もいました。
そこで、勉三は今の現状を変えたい、と貧しさと戦っていた農民たちにも声をかけます。
貧しさに困っていた人々は、
- もしかしたらこの生活から逃れられるかもしれない。
- 新しい土地でまともに生きていけるかも知れない。
そんな希望を抱いた事でしょう。
最初に言われていた事と違う!
と不満を募らせていたのですね。
頑張って開墾しても、土地は会社の持ち物のままで、自分の物になる話になりません。
意欲があって頑張っていた人もやる気が無くなり、居なくなってしまう事もしばしばだったようです。
想いの差に気づけない勉三も、労力不足に繋がっていく原因の一つと言えるでしょう。
交通の便が悪いのを認めようとしなかった
晩成社が入った当時の十勝は、他の都市と繋がる大きな道が無い場所でした。
晩成社が開拓していた場所周辺で、作物や家畜などの肉を買ってくれる相手もあまりありません。
販売先を求めて、晩成社は牧場で育てた牛を、函館に卸して売っていた時期もあります。
牛肉を買ってくれる外国人や飲食店などが、当時は函館周辺にあったからです。
しかし、まともな道のない十勝から函館に輸送するとなると、とても時間がかり、輸送にもお金もかかりました。
という事がちょくちょくあり、思うように晩成社はお金を稼げませんでした。
ちなみに、十勝と他の土地を結ぶ土地が整備されるのは、十勝分監ができた1895年頃からになります。
次から次に新しい事に手を出した
勉三は最初、今の帯広市の一部にあたる下帯広村で開墾を進めていました。
しかし、思うように売れる作物もたくさんできず、会社としての経営は赤字です。
→うまく増えなかったり、ハムなどの加工品が売れないでダメになる
→火事でたくさん死んでしまったり、冬の寒さの厳しさに死んでしまってダメになる
→輸送のコストがかかったダメになる
→輸送のコストがかかってダメになる
この他にも、藍を作ってみようとしたり、木材工場を作ってみたり。
朝ドラだったら毎週『こんな事して大丈夫!?』と思わずにはいられない展開が続く勢いです。
新しい事に手を出して、条件が整い始めて、結果が出る前に、また別な事を始める。
そんな、なんとも言えない悪循環を繰り返してしまったのですね。
ずっとお米は作ろうと頑張っていたものの、思うようにはいきませんでした。
コミュニケーション不足
自分の考えを押し通そうとしたり、人から長話をされるのが嫌いだったのだとか。
- 自分からの指示以外の事をされるのも嫌
- 勝手に判断して勝手に行動されるのも嫌
という性格だったと言われています。
下帯広から離れ、生花苗で牧場作りに精を出していた頃には、
こっちは頑張って農作業を続けてるのに、依田さんは余所で違う事をしてる!
と反感を買っていた事もあったようです。
ちなみに、勉三の他の兄弟は人当りがよかったり、人望がありました。
しかし、応援に来ても、病気などの理由で十勝から居なくなってしまう事がほとんど。
晩成社として、中々人心をまとめられませんでした。
最後に
- 人一倍理想が高く、人付き合いが苦手な、何か一つを育て上げる粘り強さのない飽き性。
- 農業の知識がないのに開拓に手を出した無謀人。
という側面も持っていた依田勉三や晩成社だった、という事についてまとめてみました。
確かに晩成社は倒産し、依田勉三が作ったのはお金ではなく借金となってしまいました。
けれど、今の十勝に至るきっかけとなった一つに、依田勉三と晩成社が存在する事に変わりはありません。
開拓への熱い想いは、今でも地域に受け継がれています。
荒川弘先生の漫画・百姓貴族でも依田勉三について触れている話がありますよ。