先人カードめぐりの中で、大好きな松浦武四郎のカードをゲットする事ができました。
この松浦武四郎を題材として、NHKでは『永遠のニシパ』というスペシャルドラマも作られていました。
松浦武四郎ってどんな人?
NHKドラマ『永遠のニシパ』が気になってる
という方の参考になれば幸いです。
ドラマ『永遠のニシパ』
松潤が松浦武四郎役
2019年放送、松浦武四郎を嵐の松本潤さんが演じたスペシャルドラマです。
同じ年、帯広美術館では松浦武四郎の展示が行われていました。
どんなドラマかというと…↓
ペリーの黒船来航、ロシアの国境画定要求など江戸幕府は海外列強から開国を迫られる未曾有の危機にあった。武四郎は蝦夷地をロシアから守らなければならないと決意して蝦夷地を探査する。蝦夷地探査はアイヌの人々の案内で行われた。そして武四郎はアイヌ文化の豊かさやアイヌの人々のやさしさに共感していく。しかしやがて蝦夷地を経営している松前藩のアイヌへの搾取略奪の実態を目の当たりにするようになる。(中略)武四郎は江戸に帰り、蝦夷地図を出版する。そしてアイヌが搾取されている厳しい実態を告発した。これに激怒した松前藩は武四郎に様々な妨害工作を仕掛け、遂には武四郎の命を奪おうと刺客を放つ。
命からがらに追われながらも武四郎は幕府に雇われて、ふたたび蝦夷地を探査することになる。今やロシアの南下を防ぐために蝦夷地の開拓は急を要していて武四郎に白羽の矢が立ったのだった。
出典:NHK 北海道150年記念ドラマ「永遠のニㇱパ」〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜
松浦武四郎ってどんな人なの?全然知らない、という方にはとても丁度良い内容になっていたと思います。
松浦武四郎がどんな人物で、何をしたのか、北海道命名前後の話も描かれていて見応えがありました。
松浦武四郎について知ってる!というタイプだと、安心して見ていられる内容なのではないでしょうか。
北海道の自然がふんだんに使われているので、景色を見ているだけでもとても楽しかったです。
ちなみに、ニシパ、というのはアイヌ語で「お兄さん」だとか「おじさん」などという意味です。親しい男性、目上の男性につける、敬称のようなものなんだとか。
NHKオンデマンドで見られる
永遠のニシパを見逃した!という方はNHKオンデマンドで見る事ができます。
Amazonプライム経由で簡単に見る事も可能です。
もしくはDVDやBlu-rayも発売されています。
松浦武四郎は幕末明治時代の人
- 松浦武四郎の生きた時代に関わった出来事
- 北海道探索に関わった人々
と絡めた年表をざっくり作ってみました。(1745年~1900年頃まで)
教科書で出て来たり、日本史に関するテレビなどで聞く事の多い出来事を主軸にまとめてみました。
明治維新の時代を生きた人物である、という事が分かってもらえるのではないでしょうか。
坂本龍馬や西郷隆盛など、明治維新の英傑たちと同じ時間を生きた人なのです。
最上徳内、間宮林蔵、近藤重蔵は松浦武四郎が入る以前に、蝦夷の調査をしていた人々です。
高田屋嘉兵衛は商人ですが、蝦夷や北方四島の調査にも関係があります。
依田勉三は十勝開拓の先駆けとなった人物です。開拓期の人物も松浦武四郎の生きた時代の人なのですね。
この伊能忠敬・最上徳内・高田屋嘉兵衛・近藤重蔵・間宮林蔵・松浦武四郎・依田勉三は北海道神宮の境内にある開拓神社に祀られています。
松浦武四郎の生涯まとめ
蝦夷を北海道という名前にしたきっかけである松浦武四郎。
それでは、命名に至るまでにどんな生涯を歩んでいたのでしょうか。ざっくりまとめてみました。
松浦武四郎が蝦夷調査に行くまで
1818年 伊勢(三重県)に産まれる。
1834年 17歳で日本各地を巡る旅に出る。
1843年 27歳の頃、長崎でロシアが日本を狙っているという話を聞く。
この時、特に蝦夷が危ないらしい、という話を武四郎は長崎で聴きます。
鎖国をしていた日本ですが、当時の蝦夷では先住民族のアイヌ民族がロシアなどの他国と物の売り買いをしていました。
そして、ロシアの船も蝦夷の海岸に現れる事が多くなっていたのです。
このままでは、アイヌ民族がロシアに取り込まれてしまい、蝦夷がロシアとなるのでは?
そうなったら、日本本土も狙われてしまう、と考えたのです。
この話は坂本龍馬たちも気にしていたと言われています。
この『ロシアが日本を、蝦夷を狙っている』という話がきっかけになり、松浦武四郎は蝦夷を調べる事にしたのでした。
松浦武四郎を邪魔する松前藩
昔の蝦夷には、アイヌ民族がたくさん暮らしていました。
そんな蝦夷を、道南周辺に城を持っていた松前藩が治めていました。
1844年 武四郎は蝦夷へ調査の為に入ろうとしましたが、入る事を許されませんでした。
自分たちがどんな事をしているか調べられてしまうと、松前藩の立場が悪くなってしまいます。
なので、松前藩は他の地域からやってくる人を厳しく取り調べていたのだとか。
それでも諦めない武四郎は、地元の人を装って蝦夷に入る事に成功しました。
1845年 28歳の頃、1回目の蝦夷探査を行う事ができたのです。
そこから、実費で蝦夷の中を探検して回りました。
地理や動植物・住んでいるアイヌ民族についての事などについて、調べていったのです。
蝦夷に詳しいアイヌ民族と触れ合っている内に、親しくなった武四郎。
アイヌ民族と同じ格好をして、同じ道具を使って調査をするようになった、とも言われています。
最初は日本の国境を守るため、ロシアにアイヌ民族がなびくのを防ぐため、武四郎は蝦夷探検をしていたと言われています。
しかし、次第にアイヌ民族に親しみを覚えるようになっていきました。
日本中の人に蝦夷について、アイヌ民族について知ってもらえる様、本もたくさん書いていました。
その中で、松前藩はアイヌ民族にこんなひどい事をしている!という非難もするようになったのです。
※この辺りについては諸説ありです。
その為、武四郎は蝦夷の探検その物を松前藩から出版の邪魔をされたり、果てには暗殺されかかった事もありました。
それでもめげず、武四郎は実情を伝え続けました。
そして約5年の間に、実費で3回見て回り、アイヌ語で呼ばれている土地名をまとめたり、詳細な地図を作り続けていきました。
北海道の海岸線などについての地図は、先人である伊能忠敬や間宮林蔵といった人達の手によって記録されていました。
そして、詳細な内陸部の地図については、松浦武四郎の手によって作られたのです。
松浦武四郎、幕府の役人になる
1855年 38歳頃、江戸幕府から蝦夷地御用御雇入(えぞちごようおやといいれ)の命を武四郎は受ける事ができました。
蝦夷について情報を発信し続けていた事が認められ、幕府直々に蝦夷探検が許されたのです。
そして、武四郎はその後約3年の間に3回、蝦夷を探検し続けました。
今は日本ではありませんが、樺太も当時は蝦夷と考えられていました。
その樺太についても、武四郎は探検をして地図を作っています。
蝦夷に暮らすアイヌ民族について、近世蝦夷人物誌という本に詳しくまとめたりもしています。
人情ある人々の姿や、賢い長老についての話などについてまとめてあります。
広く日本中の人に、アイヌ民族の事や蝦夷の事を伝えていったのです。
蝦夷の各所を調べた事を、武四郎は“日誌”という名前を付けてまとめた本にしています。
石狩日誌や知床日誌などがある中で、十勝日誌という日誌も存在します。
十勝の菓子店・六花亭ではこの十勝日誌をモチーフにした箱でお菓子の詰め合わせを販売していますよ。
松浦武四郎、北海道命名の親になる
1868年 50歳頃には、日本は江戸時代から明治時代へと移り変わっていました。
武四郎が初めての蝦夷探検をしてからの20年の中で、日本では激動の幕末~明治の時代が流れていたのです。
武四郎は、蝦夷探検の第一人者として有名にもなっていました。
そこで蝦夷の地名や地理に詳しい武四郎に、明治政府は蝦夷について新しい名前の提案を求めます。
そこで、武四郎は6つの名前候補を明治政府に提案しました。
1869年7月17日 武四郎の案の一つ、北加伊道という案がありました。明治政府は漢字を北海道に改めて、新しく名前を付けたのです。
北海道内の地名なども、武四郎がアイヌ語に漢字をあてた地名がほとんどそのまま採用されました。
つまり、北海道という名前だけではなく、道内の様々な地名もアイヌ語を元に武四郎が考えた、という事になりますね。
松浦武四郎、馬角斎を名乗る
1869年8月 51歳の頃です。明治政府によって北海道開拓に関わる開拓判官という役職に任命されました。
これまでアイヌ民族にたいする和人の横暴を見てきた武四郎です。
状況を良くしようと、開拓長官に、和人がアイヌ民族に対して不公平な商いやひどい行いをしない政策を提案しました。
しかし、昔の松前藩のように、アイヌ民族を使って利益を得ている人たちもたくさんいました。
そんな人々から、武四郎は抵抗に合い、開拓長官にも政策の提案を聞き入れてもらえなかったのです。
そもそも、開拓判官という役職についているのに、武四郎は東京勤めをさせられていました。
現地で開拓の指揮を執ったりする事もできなかったのです。
1870年 任命されて一年も経たない内に、武四郎は開拓判官を辞職します。
馬角斎(ばかくさい)と名乗ったりもしました。
明治政府そのものに失望した気持ちの現れだ、とも言われています。
武四郎はその後、北海道の地に足を踏み入れる事はありませんでした。
しかし、開拓に関わっている人々に、自らの体験や知恵でこっそりと助言を続けて、北海道開拓に心を砕いていたと言われています。
その後も、武四郎は日本各地を旅しては見聞を本にまとめたりしています。
また、様々な品物を収集するコレクターでもありました。ちなみに亡くなる前年には、富士山にも登る程、元気な老人だったのです。
旅と日本を愛し、アイヌ民族と親しみ、北海道を愛したであろう武四郎。
1888年 70歳頃、その生涯を閉じます。
蝦夷が北海道になったワケ
※命名の原案については諸説あります
武四郎が明治政府に名前の提案を求められた時、以下の6つの案を提出しています。
- 海北道
- 海島道
- 東北道
- 日高見道
- 千島道
- 北加伊道
日本には東海道や北陸道などの、“道”を使って地域区分がありました。
その例にならって、6つの案にも“道”がついているのです。
そして、アイヌ民族はこの地で産まれた自らの事をカイと呼ぶ、という話を武四郎はアイヌの長老から聞いていました。
なので、この地に生きる人々、という意味を込めて、加伊という言葉を含ませたと言われています。
しかし、この話は本当にそう聞いたのか?が疑問視されているので、あくまでも諸説の1つとしてご紹介しますね。
また、武四郎自身も自分を北海道人と名乗ったりしていました。
そういう事もあって、案の中に北加伊道を含めたのだ、と言われています。
この案の内から北加伊島を北海道として、明治政府は蝦夷を北海道にしたのでした。
松浦武四郎の先人カード
北海道の偉人・先人を100人カードにした先人カードでは、1番目にラインナップされています。
札幌にある北海道博物館で貰う事ができました。※現在は配布終了しています。
館内では北海道の歴史やアイヌ民族についてじっくり学ぶ事ができます。
しっかりじっくり見るなら、3~4時間は必要になりそうな程の展示内容です。
最後に
松浦武四郎と北海道について、ご紹介しました。
松浦武四郎は、北海道を愛し、アイヌ民族を親しく想った冒険家だという事も分かっていただけたのではないでしょうか。
松浦武四郎については、様々な書籍でその人生や功績がまとめられています。その中でも、私が一番読みやすく、勉強になったのは、絵本の『北加伊道』です。
絵本なので、絵と分かりやすい文章で、松浦武四郎について学ぶ事ができます。
巻末には武四郎についてより詳しく書いてあるので、松浦武四郎についてより詳しく知りたい!という時にオススメですよ。
以上、歴史大好き、十勝民のおかめでした。